闇夜を照らす優しい月光
ゼリーが鞄の中に入りっぱなしだ。
昨日起きたことが森村の思考を止めていた。
「はぁ」
それを取り出してぼーと見つめていれば、
「それ、人気ですよね」
と声を掛けられる。
「あ、そうなんだ」
そんなことを森村が知っているはずもなく、鞄の中へとつっこんだ。
「森村さん、ありがとうございました」
「うん、別に」
今日も仕事を押し付けようとする立花に、
「ごめん。無理」
と断りを入れる。昨日、そのことを言われたばかりなのだから。
「えぇっ、一人じゃ終わりませんよぉ」
甘えた声で言われても今は睦月と顔を合わせたくない。
なんだかんだといって仕事を押し付けようとする彼女を無視し、自分の仕事を終わらせ課長にハンコを貰いに行く。
席を開けた隙、彼女の仕事が森村のデスクにあり、メモ書きが置かれていた。
「なに、これ」
なんてずる賢いのだろうか。
仕方なく仕事をはじめる。早く済ませて帰ればいい。
だが今日に限って仕事が進まない。面倒な仕事を残していったからだ。
「はぁ、与えられて仕事も満足にできないとか、どんだけ無能なんだよ」
ぶつぶつと文句を言いながらパソコンを打っていると。
「お疲れ様」
と声を掛けられる。
「あ……」
いつもなら待ちに待った存在なのに、今日はただ気まずい。
「君はまた立花さんの仕事をしているのですか」
「そうです」
昨日、聞かれたというのに立花の仕事をしているのだ。これでは自ら進んで仕事を引き受けているように見えるのではないだろうか。
きっと呆れただろう。
このまま社長室へと戻るかと思ったが、
「手伝いしますよ」
とファイルを半分とり隣の席へと腰を下ろした。
「いえ、これは俺がやります」
「一人より二人の方がはやいですよ」
そういうとパソコンを立ち上げて打ち始める。
睦月はタイピングも早く、あっというまにデータ入力が終わった。
「そろそろ彼女の待遇を考えなければいけませんね」
「え、あ」
彼女が他の部署へと移動になるのはかまわないが、いつもほんわかと優しい睦月が、少々怖い顔になっている。
「これ、ゴミ箱に入っていたのを拝見しましたよ」
丸めずに捨てたメモ。それを指に挟んでひらひらと振る。
「残りの仕事お願いします、ですか。貴方が彼女の仕事をしていること、課長は知っていますよね?」
気が付いていると思う。だが課長も彼女には甘いので見て見ぬふりをしているだろう。
「多分、ですが」
「わかりました。それでは一緒に帰りましょう」
「え?」
「仕事を手伝ったのですからご褒美下さい」
ご褒美という言葉に、浮かんできたのはキスの二文字だった。
そっと睦月を見れば、指で自分の唇をとんと叩く。やはりそうだと混乱し、
「無理です、無理」
と手をクロスさせて罰点を作る。
「ふっ、ふふ、何を想像したんです?」
何を想像したのかわかっているのに顔を近づけて尋ねてくる。
からかわれたのだ。恥ずかしくて、
「手伝っていただきましてありがとうございます」
鞄を手にし帰ろうとするが、後ろから抱きしめられて動けない。
「社長」
「すみません。あまりに可愛いもので。つい」
可愛いとは誰のことか。
まわりを見渡すがふたりしかいない。いや、そうだとわかっていたが確認せずにはいられなかった。
「可愛くないですよ」
どこからどうみても可愛いから縁遠い。不愛想だと陰口を叩かれるくらいなのに。
「可愛いですよ」
耳元でささやかれて胸の鼓動が高鳴った。
「やめてください」
これ以上は心臓が持ちそうになく、森村を抱きしめる腕に触れた。
「放しませんよ。強引な手を使ってもわからせないといけませんからね」
「ひゃっ」
耳を噛まれて体が跳ねる。睦月の方へ顔を向けようとすると、顎をつかまれてそのまま上向きにされ唇が重なった。
何故、睦月は混乱させるようなことをするのだろう。
こういうことに不慣れな男には刺激が強く、気持ちを保つことができない。
一回、ひとまず休みがほしい。
「ん、まって」
だが睦月はやめることなく、口づけはさらに深まっていく。
「ふっ」
足の力が抜け倒れそうになる体を睦月がしっかりと抱きしめる。
「もっと私を意識してください」
ね、と森村の口の端を親指で拭う。
とうに容量を超えているのに更に詰め込まれて、しかもキスで足腰が立たなくなって逃げるに逃げられない。
都合よく気を失うことができたなら。この悩ましい思いをその間だけ考えずにすむのに。
「森村君、タクシーで送りますよ」
「……す」
睦月の肩にもたれタクシーへと乗り込む。
その後は前の日と同じ。
ただ、ひとつだけ。思い出したら下半身のものが反応してしまった、ということだけが違っていた。
とうとう睦月で抜いてしまった。自分の中で彼の存在は潤いであり癒しであった、はずだ。
自分もそういう意味で睦月が、と思ったが恋愛経験が皆無な森村にはわからず、頭の中でぐるぐるとしていた。
「森村さん、昨日はすみません。お願いしようと思ったら席にいなくて」
今まではどうとも思わなかったのに。立花の態度がやたらと鼻につく。
彼女がデスクに仕事を置いていかなければ、こんなに悩むことはなかったかもしれない。
「これからは自分の仕事は自分でやって」
きっぱりというと作り笑いを浮かべていた顔が少しゆがんだ。
「そんなぁ、今まではお手伝いしてくれたのに。どうして酷いこと言うんですか」
まるでこちらが悪者のような言い方をする。
男たちの視線が森村に向かい、その中の一人が彼女をかばうように、
「彼女は色々と忙しいんだ。助けてやったっていいだろう」
とヒーロー気取りで言い放つ。
それなら言った本人が助ければいい、そう口にしようとした時、
「森村君、立花さん、ちょっと来てくれるかな」
課長がミーティングルームを指さし、話はここまでとなった。
部屋に入り座るように言われて腰を下ろすと二人の前に封筒を置いた。
「異動の辞令だ」
といわれて封筒の中を開いて見る。そこに書かれているのは秘書課への異動だった。
「え、なんで私が営業二課に」
営業二課の課長は女性で厳しい人だと聞く。
今までのようなことをしていたら間違いなく課長に泣かされることだろう。
「私には無理です。ここにいさせてください」
「でもねぇ、決まったことだし」
とハンカチで汗を拭う。きっと何か言われたのだろう。立花の味方をしなかった。
「そうだ、森村さん、貴方が行くって言ってください。どう考えても秘書課に向いてませんよ」
確かに秘書課など森村には向いていない。なんせあそこの部署には顔面偏差値の高い者しかいないのだから。
その点だけでいえば立花は負けていないだろう。
「駄目だよ、立花ちゃん。変更は受け入れない」
ドアが開き、秘書課の土田が部屋の中へと入ってくる。見た目もだが口調もチャラく聞こえてしまう。だが睦月と一緒の時は普通の秘書に見えた。
「土田さん! でも、こんなコミュニケーションのとれない人より私の方が」
自分を守るのに必死な立花に、先ほどから酷い言われようなのだが本当のことなので反論はできない。
「立花ちゃん知ってる? 君たちの部署の仕事、ほぼ彼がやっているんだよね」
「へ?」
「君が一番だけど、他の人たちも彼に仕事を押し付けているんだよ。いやぁ、課長さんがそれを知らないとかいうからびっくりしちゃったよ。ねぇ」
「え、いや、その」
驚く立花に狼狽える課長。誰も本当のことを知らないと思っていたが、土田の言葉にじわりと胸が熱くなった。
自分のことを見ていてくれた、それが嬉しい。
「しかも! 定時までに終わっているんだよ。それなのにさ、立花ちゃんはほんのちょっとのお仕事が終わらないんでしょ。そんな無能な子は俺の下にいらない」
「なっ、そんなことはないですよ。ねぇ、森村さん」
「俺は二時間で終わらせている」
「そんな、終わるわけないじゃないですか」
いや、実際に終わっている。
立花の肩を持つ気にはなれない。縋るようにこちらを見るが無視し、土田の方へと視線を向ける。
「俺に秘書課は向いていないと思います」
これは立花のためではなく、本当にそう思うのではっきりと告げた。
だが土田は首を横にふるう。
「君はこの課にいては駄目だな。課長さん、二人は異動するけど補充はない」
「え、それは困りますよ」
「だって、よその課でお話しできる余裕があるんだもの。大丈夫でしょ」
立花だけでなく、他の人たちも同じようなことをしていたようだ。その中には課長も含まれる。
「課長、肩書、なくしたくないでしょ?」
「うっ」
課長が立花のことを守らなかったのは、肩書を守るためだった。自分さえよければ部下はどうでもいい、そんな男の下で働くなんてお断りだ。
「わかりました。できるだけはやく異動させてください」
「そう思ってお迎えに来たんだけどさ」
そういうと立花の方へ視線を向ける。かなり大きな声だったから外に丸聞こえだっただろう。
「私は嫌です」
今度は泣き落としというわけか、涙を浮かべて土田に縋りつくが、にっこりと笑って体を引き離した。
「ウソ泣きをしても無駄だよ。俺にはわかるから。それと、明日から営業二課に行くように。さ、森村君、荷物をまとめておいで」
「はい」
先に部屋を出てデスクへと向かう。すると先ほど立花の味方をした先輩が近寄ってくる。
「お前ら、異動になったのか」
「はい。なので俺の分の仕事をお願いします」
デスクの上のファイルを先輩へと手渡した。
「ふざけんな。普通、今日の分くらいはやってから行くだろうが」
「残念。彼は今日から秘書課なので」
二人の間に土田が入り、
「あ、立花さんが泣いてるから慰めてあげなよ」
とミーティングルームを指さすと、ファイルを抱えたまま向かった。
「はー、この課ってこんな奴ばかりなの」
「俺にはよくわからないです」
彼らとは必要最低限の会話しかしてこなかったから。
「そう。さ、行こうか」
荷物もまとまったので袋に入れて、残っている人たちに頭を下げた。
秘書課の前。土田がドアを開くと中には三名の女性がいて一斉に視線が向けられる。
「はい、皆さん手を止めて注目。今日から秘書課に配属される森村君です」
「森村です」
と頭を下げると、一人ずつ紹介をしてくれる。
背が小さく可愛い顔をしているのは竹内。すらりとしたモデルのような体系と容姿を持つ松野。髪が短くカッコいい人が梅島だ。
顔のいい人たちに囲まれていると自分がみじめになってきて背中がまるくなっていく。
「森村君、彼女たちが綺麗だからって照れてるぅ?」
背中を強くはたかれて背筋が真っすぐ立ち上がる。
「土田さん」
恨めしく彼を見れば、
「ここはね、秘書課だけど内部調査をする課でもあるんだ」
まさかそんなことをしているとはと驚いた。
「そうなんですか」
「はい。睦月が社長に就任した時に作ったんです」
竹内がそう言葉をつなぎ、
「なので優秀な社員を補充してほしいとお願いしたところ、森村さんに白羽の矢が」
今度は松野がそうつないだ。
もともとは立花のことで内部告白があり、森村のことを知ったという。
「それなら俺がどんな人間なのかとわかってますよね。コミュニケーションの取れない根暗な男だということを」
「社長が『慣れるまで優しく見守ってあげてくださいね』と言ってましたから。なので少しずつでいいので仲良くしてくださいね」
と梅島の言葉に目じりが熱くなった。
なんて優しい人たちなのだろう。そして睦月は自分のことを気にかけてあらかじめ話しておいてくれたのだろう。
「ありがとうございます」
「いいんです。社長の思い人なのですから」
ね、と彼女たちが声をそろえ、森村は目を瞬かせた。
「え?」
だが彼女たちは笑みを浮かべるだけで、仕事の内容を説明するわとすっかりお仕事モードだった。