懐かしき顔
 駅へと続く道にはマンションの棟が立ち並ぶ。今歩いている方角から逆へ向かうと学校がある。ここは多くの学生が通学に使う場所であり、高校で社会科の教師をしている桧山環《ひやまめぐる》も駅まで、この道を利用していた。
             定時にあがることなど滅多になく、学生達と同じ時間に歩いていると、彼らと同じころの自分を思いだして懐かしい気持ちになる。
             ランドセルを背負う子供たちの姿もあり、走っているのに元気いっぱいで、階段の上り下りでも疲れてしまう自分にもそういう時代があったなとぼんやりと眺めていたら頭に何かが当たった。
             一体何がと当たりを見渡してから足元へと視界を向ければ落ちているのは紙飛行機だった。
             拾い上げると赤ペンが裏面にしみていてレ点がみえた。それを広げてみると名前と点数が書かれている。
            「算数のテストか。あさきやまと、20てん」
             不正解だらけな答案用紙。無視できない点数だが、それよりも気になったのは名前の方だった。
            「あさき……」
             その名は桧山の頭の片隅に十年もの間居続けていた。
             髪を金色に染めてアクセサリーを身に着けた男子生徒の姿が浮かび、ちりちりとする胸のあたりで拳を握りしめる。
            「あー!!」
             甲高い声がして目を見開いてそちらの方へと顔を向ける。やんちゃそうな男の子だ。黄色い帽子と青いランドセルを背負っていた。
             つりあがった目元が似ているような気がしてドキっとする。結婚し子供がいてもおかしくはない歳なのだから。
             もしも彼と何か関係があるとしたら、そう思うと胸の鼓動が激しく波打った。
            「かえしてよ」
             顔が近い。俯いたままの桧山に、反応が欲しくて顔を覗き込んだのだろう。目を軽く見開いた後、彼の目線に合わせるようにしゃがんだ。
            「テスト用紙を飛行機にして飛ばしてはダメだよ」
             飛行機のカタチに折れ目のついた答案用紙を広げて指さす。
            「だって、かぁちゃんにみせられなもん」
             それを受け取ったやまとが拗ねた顔をする。
            「そうだね、怒られちゃうかもしれない」
            「だろ。だからとばすの」
             返してと手を差し出すやまとに桧山はにっこりと笑い、彼が届かないくらい高い所へと手を挙げた。
            「あー、おじさんひどい」
             やまとからしてみればおじさんだといわれる歳になった。それに彼の親は自分よりも年下という可能性もあるのだから。
            「うーん、たしかにあさき君からしてみたらおじさんだけど、こうみえても学校の先生なんだ。なので答案用紙を飛行機にして飛ばすのを見過ごせません」
            「え、がっこうのせんせいなの!」
             まずいという表情を浮かべるやまとに桧山は頭の上に手を置いた。
            「そうだよ。君の通う小学校の近くにある高校で先生をしているんだ。ねぇ、あさき君。先生と一緒に見直しをしようか」
            「えぇ、やだよぉ」
             驚いたり嫌がったり表情が豊かだ。嘘の笑顔を浮かべるようになった自分とは違う。
            「もしも、お母さんから怒られるのが半分くらいになるとしたらどうする?」
            「え、みなおしをすればそうなるの?」
            「0点をとってしまったから先生に教えてもらっていたとお母さんにいうんだ。そうすれば次は頑張ってねって返ってくるよ」
             やる気になったやまとはランドセルからペンケースを取り出した。
            「それじゃ一緒に頑張ろうね」
            「うん」
             やる気になってくれた。後は飽きさせないためにはどうすべきかと考えながら一つずつ問題を解いていく。
			 やがて回答欄が埋まり、やまとがプリントを掲げる。
            「できたー」
            「よくできました」
            「せんせい、ありがとう」
             きちんとお礼を言えることにえらいねと頭をなでると、得意げな表情を浮かべて鼻の下を指でかいた。
            「ねぇ、やまとくん。自分の名前を漢字で書ける?」
             小学一年でも自分の名前を漢字で書ける子はいるが、他の子が読めないという理由から平仮名で書く。
 もしかしたらやまとも自分の名を漢字でかけるのではと思い尋ねるとプリントの空白欄に浅木大和とかいた。
 やはり彼と関係のある子なのかもしれない。
             三年一組、出席番号一番、浅木京《あさききょう》。担当クラスで初めて読んだのは彼の名前だ。
             彼のことを聞こうとした、その時、
            「大和」
             と呼ぶ声がしてその低音の声に胸の鼓動が跳ね上がる。
            「あ、迎えに来てくれたの」
             やまとが手を振っている。桧山はしゃがんだまま動けず、プリントを持った手をふるう。
             この出逢いですら偶然だというのに、すぐそばに浅木がいるかもしれないのだ。
             いや、もしかしたら同じ名字なだけかもしれないし、大和がつり目だからと勝手に彼の子供だと思い込んで全然違うかもしれない。
             確認するのが怖くてしゃがんだままで動けずにいると、
            「え、桧山先生じゃん」
             印象に残るような容姿をしているわけでもなく、面白い、怖い、優しい、そのどれにも当てはまらないだろう。地味でごくごく普通の男だから。
             だから驚いた。まさか名前を呼ばれるとは思わなかったから。
             顔を上げるとはじめに目に飛び込んできたのは髪の色。そして耳にはピアスとイヤーカフ。
             髪色は同じ、ピアス類は昔よりも増えている。ただし指輪はなくブレスレットをしていた。
             最後に会った十八歳、大人になりかけだった少年はすっかり大人の男になっていた。
            「すごい! よくわかったねせんせいだって」
             不思議そうな表情を浮かべる大和に浅木は笑って答えた。
            「俺が高校生の時に担任だからな」
             担任だといっても十年もたてば忘れていてもおかしくないだろう。
             それなのに覚えていてくれた。そのことが嬉しくて口元がにやけてしまいそうだ。手で口元を覆って隠しておく。
            「あ、オレがクローゼットのなかからみつけたアルバム」
            「そうだ」
             覚えていた理由を知り、ゆっくりと手を下ろして口元を結んだ。
             それはそうだろう。桧山だって全ての生徒を覚えているわけではない。だからそれにたいしてはショックではない。
             ただし大和が口にした言葉。一緒に住んでいるということを差しているのではないか。
             やはりか。もう、家庭を持っていても可笑しくはない歳だ。
             過去を振り返らず未来に進む、それができない桧山は変わらぬ日々を続けている。
             この歳で家庭を持たず、しかも恋人すらいない。それが惨めで卑屈になる自分が嫌だ。
             それによりによって浅木というのがよくない。
            「浅木、そろそろ……」
             側にいると落ち込むだけなので帰ろう。だが、その言葉は浅木の言葉によって最後まで伝えることができなかった。
            「先生、待って。久しぶりに会ったんだし飲まない?」
             社交辞令の常套句。そんな言葉もいえるようになったのか。
             大人になった浅木が目の前にいるというのに、どうしても高校生の頃の彼を思ってしまう。だから感心するのだ。
             いや、感心している場合ではない。正直に言うと違和感もあって複雑な気持ちなのだ。だから誘いにはあまり乗りたくなかった。
            「悪いな。明日の小テストを準備しようかと」
             断る理由に予定にないことを口にしたのだが、
 
            「それなら明日」
             それでおしまいということにはならなかった。
            「明日も無理だ。当分忙しい」
             素っ気なく言い返し、これで付き合いの悪い奴だとあきらめるだろう。
            「それなら連絡先の交換しよう」
             スマートフォンを取り出して横に振った。
             桧山はそう簡単に連絡先を交換するタイプではない。だから軽く感じでしまった。
            「あ……悪い、スマートフォンを忘れてしまったようだ。学校に戻るからまたな」            
             そう思ってはいてもはっきりと教えないと口にすることができない。
             嘘は駄目だと生徒にはいうくせに、自分がしかも二度もついてしまった。
            「わかった。また今度な」
             今度はすんなりとひいた。さすがにわかったのだろう。連絡先を交換したくないということを。その言葉を聞けて安堵する。
            「あぁ。大和君、きちんとテストをお母さんに見せるんだよ」
            「はーい。先生、ばいばい」
             浅木の手を握りしめ、もう片方の手を桧山に向けて振る。それに応えて桧山も手を振ると浅木が頭を下げた。
             用もないのに学校へと引き返し、途中に数人の生徒に声を掛けられて、先生が忘れ物かよと笑われた。
             普段は忘れ物を注意する側なのだから、言われても仕方がない。
             そしてその度に心の中で訂正を入れながら職員室へとたどり着く。
            「あれ、帰ったんじゃ……」
             桧山に声をかけてきたのは元教え子であり、同じ教科を担当している林田《はやしだ》だ。
            「忘れ物をしてしまってな」
            「あはは。先生ってしっかりしてそうで抜けているところがありますよね」
            
             林田はこの学校の元生徒で、昼休みにたまに歴史の話をしたりご飯を一緒に食べていた。気まぐれな猫のようにふらりときて、好きな時間に教室へと戻っていく。そんな関係ではあったが、ふたりでいる時間は穏やかで心地が良かった。
            「確かにその通りだが……あ、カバンの中にあった」
             スマートフォンを中から取り出して林田の方へと向けた。
            「ドンマイです」
            「それじゃ帰るな」
            「お疲れさまでした」
             敬礼をして送り出す林田に、軽く笑って見せて職員室を後にする。
             浅木から逃げるためにしたこととはいえ、なんだか自分の演技が馬鹿らしくて息を吐き出した。
             先ほど大和と出逢った場所がもうすぐ。さすがに帰っただろう、そう思っていたのに。
「なんでいるかな」
 桧山を見つけて手を振る背の高い男と小さな姿がある。
            「先生、スマホあった?」            
             本当に忘れたのかを確認するために待っていたのだろうか。
            「……あったよ」            
            「それじゃ連絡先教えて」            
             学生の頃もしつこいところがあった。変わらない部分を見つけてしまい深くため息をつく。
            「わかった。当分は忙しいから。連絡があっても返さないからな」
             きっと自分は酷い顔をしている。だがそんな桧山を見ても浅木の表情は変わらない。
             客商売をしているのだから、そう簡単に顔には出さないだけか。
            「了解」
             お互いの連絡先を交換する。
            「ほら、用は済んだだろ」
            「わかった。帰るわ」
             手をひらひらと振り帰っていく姿を眺めながら桧山は深くため息をついた。
            「どうして十年もたったのに会うんだよ」
             しかも偶然に会わなければ思い出しもしなかっただろう。彼にとってはその程度のことなのに、わざわざ確認までしにきて連絡先を聞いていくなんて。
             胸がざわざわとしてシャツを強く握りしめた。