獣人、恋慕ノ情ヲ抱ク

新しい暮らし

 今まではお店で食べていた朝食を、これからは家で食べることになった。ただエメは朝が早いので作り置きをしておくことになった。
 寝ていていいと言っているのだが見送りをやめることはなかった。
「ライナー先生、保護施設へは俺が挨拶に行くね」
「悪いな。そうしてくれ」
 ふたりのことを任されたのは自分なのだから。仕事が終わったら一緒に施設へ行こうと思っていた。
「それじゃ、行ってきます」
 手を振って家を出ようとしたのだが、
「待った」
 と呼び止められた。
「ライナー先生、どうしたの?」
「いってきますのキスが欲しい」
 今までそんなことを言ったことがないのに。突然のことに困惑し、
「ライナー先生、本気で言っているの!?」
 と大きな声が出てしまい慌てて口を押えた。
「あぁ。エメが小さい時にしてくれただろう。いってらっしゃいの言葉とともに」
 あれはまだライナーに家族のような思いを抱いていたころだ。
 お仕事頑張って。その気持ちとともに行ってらっしゃいのキスをした。
「やだよ。はずかしい」
 今はその理由が違ってしまうから。
「そうか、嫌か」
 悲しそうな顔で悪かったと頭をなでられ、やはりライナーの中では自分は子供でしかないのだと思わされた。
「ライナー先生が嫌なんじゃなくて、俺、ちいさな子じゃないから」
 気持ちが落ち込み尻尾がたれさがる。朝からこんな気持ちにさせられるなんて。やはり同棲は出来ないと断るべきだろう。
「ライナー先生、あのさ」
「俺は、今、ここにいるエメにキスしてほしい」
 エメの言葉を言葉で遮り、 とんと再び自分の唇へ指で触れる。
 今の自分を求めている。落ち込んだ気持ちが急上昇し尻尾も元気を取り戻した。
 なんて単純。ライナーの言葉一つで浮いたり沈んだりと簡単にしてしまうのだから。
「わかった」
 ちゅっと軽く触れるくらいのキスをすると、こそばゆくて顔を真っ赤にして手で覆った。
「元気が出た。今日も仕事を頑張るか」
 子供の頃もそういって喜んでくれたのを思い出して、 照れはあるが嬉しい方が勝《まさ》った。

 ギーとルネは朝から元気よくパン屋へとやってきた。楽しみすぎて目が覚めたのだと笑う。
「まずは仕事に慣れて貰うためにお会計と袋詰めをやってもらうね。算盤は使える?」
「はい。算盤が使えるかを求められることがあるからと、ピトルさんが教えに来てくれました」
 ピトルとは獣人商売組合の組員で、エメのパン屋にもよく買いに来てくれる。
 彼なら面倒見が良いので丁寧に教えてくれるだろう。
「パンの値段と種類を覚えるのが大変だけど、俺もそばにいるから」
「あの、お店が開くまでエメさんの作業を見ていてもいいでしょうか」
「もちろん」
 パンを形成しているとき、ふたりはじっと見ている。
「エメさん、ジャムとか煮豆はいつ作っているんですか?」
「パンの発酵を待つ間に作ってるよ」
 エメは一人でパンを作っているので手間のかかるパンは作らない。
 楕円形のパンにジャムや甘い煮豆を挟んだものだったり、肉の塊を焼いてスライスしたものと野菜を挟んだものや、クリームパン、チョコレートでコーティングした丸い揚げパン、時間があれば菓子パンを数点作るくらいだ。
 チョコレートは知り合いが作っているので仕入れているし、野菜もカットして持ってきてくれるのだ。
「みんな俺の祖父からの付き合いだからさ、良くしてもらっているんだよ」
 それだけではない。店に来てくれる常連さんもいいひとばかりだ。どうしても手が離せないときにはゆっくりでいいよと言ってくれる。
「まわりの人に助けてもらってばかりだよ」
「俺、少しでもお役に立てるようにがんばります」
「俺も!」
 なんとも頼もしいことを言ってくれる。
「ありがとう」
 ふたりを抱きしめると照れくさそうにし耳がたれた。
 店を開けるまでエメはパンを焼き、それをふたりは熱心に見ていた。
 パンが焼きあがると香ばしい香りに尻尾が揺れるのはエメも同じだ。
「味見をしたい人!」
 するとふたりは元気よく手を挙げてる。
「はい、火傷しないようにね」
 焼き立てのパンはとても熱く紙に包んで手渡した。
 息を吹きかけてハフハフといいながら食べると目を大きく見開いて互いに顔を合わせた。
「おいしぃ」
 とろけるような笑みを浮かべるギーとルネが可愛くて口元が緩んだ。
 ふたりから合格点を貰い棚に焼き立てのパンを並べる。
「いいにおいに包まれていて、幸せですぅ」
 フンフンと鼻を鳴らすふたりにエメも一緒に匂いを嗅いで笑いあった。
「お客様がきたら元気よく『いらっしゃいませ』と声をかけてね」
「はい、頑張ります」
「頑張ります」
「袋はカウンターの下にサイズ順になっているから。パンは一つずつ紙の袋に入れてね。別の棚に小さいのがあるから」
「わかりました」
 そろそろ店を開く時間だ。吊るし看板のクローズをオープンにするのに店のドアを開くと外には既に客の姿がある。
「いらっしゃいませ」
 エメが声を掛けるとふたりも大きな声で挨拶をする。
 その声に、店員さんが増えたのねと言われ、今日からよろしくお願いしますと声をかけた。

 ギーとルネはたどたどしいながらも懸命だ。しかもパンの種類や値段がわからないとどちらかが棚へと向かい調べてくる。
 はやく種類と値段を覚えたいからできるだけふたりで頑張ります、その言葉通りにしていた。
 口を出すのは本当に困ったとき。そう決めてパンを作る方へと集中することにした。
 いつもよりも余裕があるお陰でパンを多く作れそうだ。昼になる前に調理パンは売り切れになってしまうが肉を焼く時間もある。
 パンを焼くのに集中できるのはミヒルが働いていた時以来だ。
 北の小さな村からお兄と一緒に出てきたばかりで働く場所を探しているというので雇ったのだが、本当の目的は子供をさらうことだった。今は収監されている。
「元気かな、ミヒル」
 リュンが面会に行った日に一緒にどうかと誘われていた。だけど会えなかった。その時は許すことができなかった。大切な店を悪事のために利用されたのだから。
 彼のことを思い出すたびに苦しかった。誰かを雇うのがこわかった。だがライナーとふたりのお陰でそれも薄れつつあった。