嫉心
黒い霧に覆われた時、すさまじい嫉妬の念を感じて胸が締め付けられて衿をつかむ。
これが幻妖なのだろうか。
空玄から話は聞いていたし、平八郎の意思も知った。
だが、実際にどんなものかは知らず、簡単に協力するなどと口にした自分の認識が甘かった。
きっとこれは青木が榊に抱く嫉妬。それが伝染するかのように将吾を苦しめた。
早くここから抜け出したくて霧を払うように刀を振るうけれどそれはただの無駄でしかなく、黒い霧は将吾の口から体の中へと入り込もうとする。
このまま狂ってしまうのは嫌だ。自分にはまだやりたことがたくさんある。
平八郎と正吉の顔が浮かんで消えた後、榊が自分をからかう時に見せる笑顔が浮かんだ。
はじめの頃は上辺だけだったものが、今では本当の笑顔を見せる。もう一度見たい、そう思うのに胸の苦しみがいっそう強くなり、衿を掴み耐えるように体を縮めた。
黒い霧が口の中へと入り込み、もう駄目かもしれないと思ったその時、一気に黒い霧が晴れて視界が開け。
視線の先には青木の心の臓を貫く平八郎の姿があり。舞う桜の花びらが如く、淡い桜色の光が舞い散って消えた。
これが平八郎の意思なのだろう。
今まで怖いことがあると正吉の背中に隠れていた平八郎が自ら立ち向うなんて。知らぬ間に強くなっていたことに驚く。
そして美しいその光景に目を奪われた。
榊も同様に惚けた顔をしていたが、我に返ったように崩れ落ちる様に倒れた青木の元へと向かう。
その刀は囚われた者は傷つけること無く幻妖のみを消滅させるものだと平八郎から聞いてはいたが、心の臓を貫いた姿を目の当たりにしてしまうと確かめずにはいられなかった。
「なんと、心の臓を貫いたというのに傷口が無い」
何度も貫いた箇所を調べるが、傷ついた様子もなく血も流れてはいない。
「えっと、黒い霧が幻妖で、それが八重桜の力ってことだよな。で、青木様は幻妖に囚われていた、と」
平八郎から聞いた話を思いだしながら一つずつ確認する。
将吾の言葉に頷きながらそうだと答える平八郎に、今度は榊がどういうことだと尋ねる。
平八郎は幻妖のこと、刀のことを話し、榊はそうかと頷いた。
身を持って体験したのだから幻妖という存在を信じるほかない。
「さて、この方たちはどうしますか?」
人数だけに連れてはいけないのでこのまま放置するとして、縄で縛るのかどうするのか。
「青木以外は放置する。これから先どうするかはおいおい決める」
それよりもと榊が将吾の方へと顔を向けた。
「磯谷、私の前で脱ぎだした時には驚いたぞ。まさか一人でいたすところを見せようとしていたのか?」
帯の解かれた着流しがはだけ、分厚い胸板と割れた腹筋そして下穿きが見える。戦うことに夢中であったため恰好など気にしていなかった。
「お見苦しいものを」
手で着流しの前を合わせる。
「ほら、将吾」
落ちていた帯を平八郎が手渡してくれてそれを急いで腰に巻いた。
ふと、表情が真剣なものへと変わり、真っ直ぐに将吾を見る。
「それで、何があったんだ。あの時、伊藤さんの助けを呼ぶ声が悲痛なものだったからな」
榊の言葉に平八郎が肩を震わせ、気が付いた正吉がその肩を抱く。
「そのことは後でお話します」
ここでは話したくないということを将吾の表情で読み取ってくれたようで、榊がわかったと返事する。
青木を担ぎ上げようとしていた榊に、自分が担ぐと言い帰ろうと平八郎と正吉を促す。
「そうだな。いくぞ、平八郎」
正吉の手が落ち込む平八郎の手を握りしめて引く。
今は慰めの言葉も謝罪の言葉も平八郎を辛くさせるだけだろう。後のことは正吉に任せておけばよい。
何も言わなくても気持ちを理解してくれる幼馴染に感謝しつつ、隣を歩く榊へと目を向けた。
途中で平八郎と正吉と別れ、向かう先は榊の知り合いが営む宿だ。色々と都合の良い場所であり、そこで外山が自分たちを待っているとのことだった。
その場所へと向かう間、何があったかを話すために口を開く。
「先ほどのことですが、お話をする前にひとつお尋ねしたいのですが」
「なんだ」
「榊さまは俺のことをどう思っておいでで?」
青木の言葉は信じられなかった。榊にとって自分はからかいの対象であるだけだからだ。
「なぜ、それを聞く?」
「青木様が俺と榊様が恋仲だと勘違いされてまして、まぐわえないようにとマラを切り落とせと命じられました」
「……そうか」
榊は表情を変えることなく、真っすぐに顔を向けている。
今、一体なにを考えているのだろう。
あの時のように怒ってくれたのだろうか、それともくだらないと呆れているのだろうか。
だが、その答えは将吾には知ることはできなかった。
宿につくと女将に案内され部屋へと向かう。
襖を開き、外山と目が合った瞬間、肩を力強く握りしめ、互いに無事を喜び合いう。
「磯谷、青木を」
「はっ」
担いでいたその身を畳の上へ横たえる。今だ目を覚まさぬ青木に、榊が頬を叩き起きろと声を掛け続ける。
しばらくすると青木は目を覚まし、自分達の姿に驚いたのか目を見開く。
そんな青木を、問答無用で榊が殴りつけた。
「さ、榊様!!」
驚いた将吾と外山が腰を浮かせるが、榊の勢いを止めることはできなかった。
胸倉をつかみ揺さぶりながら、
「私ではなく関係のない者を巻き込み怪我をさせた挙句に、磯谷には男として大切なものを斬り落と言ったそうだな」
と榊が睨む。
「磯谷はお主の大切な人だろう? アレを斬り落としてまでお主とまぐわう気が無いと知れたら、きっと絶望するだろうと思ってな」
怒りを含んだ目で青木を睨み、もう一度殴りかかろうとしていた榊を止めたのは将吾だった。
その表情が自棄気味なもので、わざと殴られようとしているように見えたから。
「磯谷、止めるな!」
と、腕を振り払おうとする榊に、首を横に振るい、いけませんと止める。
「そうだ止めるな。私は殴られて当然のことをしたのだから」
取り返しのつかないことをしてしまったのだからと力なく項垂れる青木に、榊は振り上げたこぶしを下げた。
「……磯谷、帰るぞ」
掴んでいた胸倉を乱暴に解き、尻もちをつくような恰好の青木から背を向けて榊は部屋を出ようとする。
「え、あ」
青木を助け起こそうとしたが、外山が目で行けと合図をくれる。
それに頷き、青木に一礼し榊の元へと行けば、
「申し訳、ございませんでした」
と聞こえて振り向けば、土下座をし深々と頭を下げる青木の姿がある。
「行くぞ」
もう一度、腕を強くを引かれる。
青木のことは気になるが後は外山に任せ、将吾は手を引かれるまま部屋を後にした。
◇…◆…◇
将吾と榊と別れて平八郎と正吉は伊藤家へと向かう。
平八郎の部屋へと入るなり力が抜けたかのように二人して座り込んだ。
「おめぇが将吾と共に掴まっている姿を見た時は俺の心の臓が止まるかと思ったぜ」
無事でよかったと正吉に頭を撫でられ、緊張の糸が切れて、胸へと飛び込んだ。
「正吉」
ぎゅっと襟を掴んで背中を震わせる。我慢できずに涙が流れ落ちる。
「おめぇが助けてって言っているのに、何も出来なくて辛かった」
その時の辛さが、震えるその声から伝わってくる。
将吾を窮地にさせ、正吉を心から心配させた。
「ごめん」
「なんでおめぇが謝るんで。悪ぃのは奴らだろうが」
「でも俺が、正純さんの配下に見つからなければ、助けを呼びに行けた。それに、将吾に酷いことをさせようとしているのが怖くて、叫ぶことしかできなくて……っ」
すぐに助けを求めれば良かったんだ。今更だが、後悔ばかりしてしまう。
「泣くな。おめぇがいたから、青木は助かったんだろ?」
優しく背中を擦り慰めてくれる。平八郎は鼻をすすり濡れた目を正吉へと向けた。
「ほら」
懐から手拭いを取り出し、乱暴に涙をふき取り始める。
「うわぁ、ちょっと、もっと優しく拭いてよ」
乱暴にするのはわざと。こうやって正吉は平八郎を元気つけようとしてくれているのだ。
「甘えんじゃねぇよ」
と言いながらも、今度は優しく拭ってくれた。
「んっ」
甘えるように顔を摺り寄せれば、手拭いを離して目尻にたまる涙をすくうように口づけをされる。
それに驚いて瞬きをすれば、口づけをした箇所に触れて優しい目をする。
きゅっと心の臓がしめつけられて、正吉を見ていたら、自分の髪をかきはじめる。
何だろうと首をかしげると、顎に指がふれ顔を上げられ、そして唇に柔らかいものが触れた。
「ふぁ、まさきち」
いきなりのことに驚いた。かたまる平八郎に、口づけは深くなり正吉の舌が口内を乱し始めた。
身体が熱くなる。
次第に表情は蕩けだし、甘い吐息をはきながら口づけを受け入れはじめた。
涎を垂らしながら舌を絡ませ、水音をたてる。
「あ……」
唇が離れるとぼんやりとした表情をし「どうして?」とつぶやく。
「前にいっただろう。ここで考えやがれって」
そう胸に拳を押し当てられる。
「うん、そうだったな」
考えるたびに胸がきゅっとなる。それはけしていやなものではなかった。
「答えをくれるの、まっているぜ」
そう正吉はいうと、疲れたと言って畳の上に横になった。