嫉心

 数日後。正吉からの許可が下りて、仕事に復帰したと聞き、平八郎は南町奉行所まで将吾に会いに行った。
「おう、平八郎じゃねぇか」
「今日から仕事に復帰したと聞いてな」
「あぁ。そういや、聞いたぜ。弥助にも話をしたそうだな」
 紋次を捕まえる時、幻妖に襲われたからだ。
「あぁ。自分にできることがあればと、弥助もそう言ってくれた」
「そうか」
 一緒に歩いていると、男が近寄ってくる。
「お前は大津の御用聞きじゃねぇか」
「伝言をあずかりやした」
 と文を渡した。将吾がそれを広げて読み始める。
「どうしたんだ?」
「いや、べつに。さてと、俺はここで」
 と言うと、男についていく。
 何かが怪しい。
 また危険なことに巻き込まれやしないだろうか。平八郎は不安になり、将吾の後をつけることにした。
 二人が向かった先は、鬱蒼とした森林に囲まれたその中にぽつんと立つ荒ら屋だった。
 戸口を潜り中へと入っていく。
 それにしても嫌な雰囲気の所だ。中の様子が気になり、何処か覗ける場所はないかと探していたら、丁度良い隙間がある。
 そこから中を覗くと、顔が腫れ額や唇から血を流した状態の男が目に入る。
「外山」
「磯谷」
 外山とは平八郎が今見ている怪我人のことか。確か、将吾が怪我を負った時に会っていた同心だった。
 ここからの位置では声は将吾の声は聞こえても姿は見えなかった。
「待っていたぞ、磯谷」
 青木の声だ。その途端に寒気がした。
 ここにいるのが嫌になる。逃げ出したい。そんな気持ちとなる。
 だが、将吾のことが気になり、ぐっとそれに耐える。
「約束だ。外山を」
「良いだろう。こやつを連れて行け」
 将吾がきたら解放するとでも書いてあったのだろうか。黒羽織を着た男が外へ出てくる。その背には怪我人を背負っており、あれは外山だろう。
 平八郎は、ばれぬように身を隠し、息をひそめる。気づかれること無く行ってしまったのを確認し、再び中を窺う。
「青木様、何故、このようなことをなさるのですか?」
「お主は榊が特に目に掛けているからな」
「何を、俺など別に」
 くつくつと笑う青木の声。それが次第と大きくなる。
「これは愉快。想いをよせている相手がこんな鈍い男だとはな」
「何を、おっしゃっているのか……」
「榊の屋敷で同衾をしておるだろうが」
「な、同衾などしてはおりませぬ」
「ほう、それなら必要ないな、お前のそれは」
 ここからでは青木の表情を窺うことはできない。それなのに、今、どんな顔をしている想像がついてしまった。
 きっと目を弓なりに細めて笑っている。
 平八郎は全身が総毛立つような恐怖を覚えた。
 だめだ、このままにしておいては。
 平八郎だけでは助けることなどできやしない。だけど誰か人を呼ぶことはできる。
 急いで南町奉行所へと行き、このことを伝えなければ。
 だが、平八郎は気が付いていなかった。中からもう一人出てきたことを。
「覗きは駄目ですよ」
 耳元で声がする。そちらへと顔を向けると黒羽織の男が立っていて、逃げなければと立ち上がろうとするが、腕を掴まれてひねりあげられた。
「いっ」
 あまりの痛さに声が出ない。
「大人しくしてくださいよぉ、平八郎さん」
「なっ、何故」
「青木様が、連れておいでって。さ、行きましょう」
 そのまま中へと連れて行かれる。
「平八郎っ!」
「おや、これは伊藤家の」
 平八郎を見た瞬間、将吾と青木の言葉が重なる。
「将吾、正純さん」
「ようこそ、平八郎さん」
 にぃ、と笑う青木に、ぞくぞくと悪寒が走る。
「大津、こ奴を縛っておけ」
 先ほど平八郎の腕をひねり上げた男は大津といい、将吾と同じ黒羽織を着ていることから同心だとわかる。
 手足を縄で縛られて身動きを封じられる。
「こんなことをして、ただでは済みませぬぞ」
 将吾の言葉に、青木は鼻で笑う。
「自分たちに置かれた立場をお考えなさい、平八郎さん」
 脅しはしたが、今の所、二人に手を出すつもりはないようだ。
「何が目的なのですか?」
「貴殿らは榊を呼ぶための餌だ」
 将吾を捕らえ榊をここに呼び出す。外山は伝言役だ。怪我を負わせたのは、青木が本気だと言うことが伝わるからだろう。
「伊藤家の、貴方まで捕らえることが出来たのは運がいい」
 ニタリ。弓なりに細められた目が、平八郎を見る。
 自分という存在が将吾と榊を不利にさせ、青木を有利にさせてしまった。
 弱い自分を恥じる。あそこで捕まらずに南町奉行所まで行けていたら、囚われた青木を解放し、罪を償わせられたというのに。
 悔しい。剣術をしっかりと学んでおけばよかった。
 怖いからと逃げてばかりで、自分は弱虫で甘えん坊だ。
 思い浮かぶのは後悔ばかりで、拳を強く握りしめ、身体を震わせる。
「平八郎、でぇ丈夫だ」
 その言葉にハッとなる。
 将吾が平八郎を安心させようと笑って見せる。
「将吾」
 いつもは使わない訛りをつかい、まるでそこに正吉がいるようにと。
「何を話している?」
 先ほど、平八郎を捕まえた男が、刀の柄で頭を小突いてくる。
「大津」
 将吾が睨みつけると、両手を上げて怖い怖いと茶化す。
「磯谷、榊を前に、男の証を自分で斬りとれ」
 なんと恐ろしいことを口にするのだろう。平八郎は震えながらも声を張り上げる。
「青木殿、お主はよくもそんなことをっ」
 男の大切な一部を失うということは、精神的にも肉体的にも苦痛を伴うだろう。
「できなければ、解っているだろうな?」
 と青木が平八郎の髪を掴んで引っ張った。
「くっ、あぁぁ……!」
 あまりの痛さに我慢できず声を上げてしまう。その声を聞きながら楽しそうな表情を見せる青木だ。
「平八郎、くそっ」
 平八郎を助けようと、身を捩り、縄から抜け出そうとするが、青木はその身を蹴り飛ばし、大津に押さえつけるように言う。
「こ奴がどうなっても良いのか?」
 平八郎の喉元に刀が押し付けられて将吾が息を飲み、抵抗する気はもう無いと力を抜く。
 その姿を見て喉元に押し付けられていた刀が離れ、将吾の傍に突き飛ばされる。
 足元あたりに崩れるように倒れ込む平八郎に、将吾が大丈夫かと声を掛けてよこす。
 それに頷いてから青木を見上げて懇願する。
「お願いですからやめてください。北と南と分かれていても、町奉行で働く者同士ではありませぬか」
「同士だと? 南と……、榊とは敵だ」
 愉快だとばかりに、青木とその配下が笑う。
 そんなむごいことを平気でしようだなんて、もう、彼らを人とは思えなかった。