兄と幼馴染

 住職と空玄から話を聞き、自分では無理だと正直思った。
 いつものように逃げようとしていた平八郎を叱咤し、「一人で危険な目になんて合わせねぇ」と言ってくれた。
 その言葉がなければ頑張ろうという気はおきなかっただろう。
 少しでもまともに剣を振るえるようになればと思い、もう一人の兄である晋に稽古をつけてくれとお願いした。
 やたらと嬉しそうな顔で「やる気になったか平八郎」と言うと竹刀を用意してくれた。
 そして稽古の時間が始まって数分後。平八郎は選んだ相手が悪かったと後悔し始めた。
「兄上、少し休憩を」
「たるんでおるぞ、平八郎!!」
 日々、鍛錬を積んでいる晋と平八郎では体力面でも差がありすぎる。
 すぐに息が上がり、腕も重くなって身体がだるい。ついていけなくてへたり込んでしまった。
「このくらいで情けないぞ平八郎」
 大げさにため息をついた晋は平八郎の腕をつかむと縁側へと座らせた。
「仕方ない。明日からつきっきりで稽古をつけよう」
「え、いや、でも、明日は道場に行かれるのでは?」
 道場の休みの日だけと思っていたので明日も稽古をつけるという晋の言葉に真っ青になる。
「かまわぬ。お主がまともに剣を振るえるようになるまで休む」
 遠慮することは無いぞと笑顔で言われ頭をなでられた。
「け、結構、じゃない、俺は兄上の道場の時間を割いてしまうのは忍びない。だから道場の日は気にせずに行って」
「いや、俺のことはいいから」
 気にするなという晋に、平八郎は肩をつかんで顔を近づける。
「だめだ。兄上、道場へ行ってください」
 必死にそう願うと、
「平八郎は優しいな。わかった。では道場のない日だけに」
 わかったと言ってくれてホッとする。剣術に関しては厳しいが晋は平八郎に甘いところがある。きっと兄思いの弟だと思っているのだろう。
 水浴びに向かう晋を見送り、平八郎は縁側を這うように部屋へと向かう。
 部屋には片づけたはずの布団が敷かれていて、疑問に思いつつもそこに横になるとふすまが開いた。
「珍しいことをするからですよ」
 平八郎のそばに腰を下ろすのは輝定の妻である紗弥(さや)だ。
「姉上」
 事情を知らぬ人にしてみればその通りだろう。あの平八郎が自ら稽古をつけてくれと頼んだのだから。
「何やら事情があるようですから止めはいたしません。さ、そろそろ正吉が参るころでしょう」
 こうなることを見通して正吉を呼んでくれておいたようで、布団も沙弥が敷いておいてくれたのだろう。
「さすがは姉上」
「調子のよいこと。さて羊羹を持ってきてあげましょうね」
「羊羹!」
 平八郎は団子が一番の好物だが羊羹もかなり好きだ。喜んで身を起こそうとして身体が痛んで唸る。
「ふふ」
 小さな子供の用に喜ぶ平八郎の姿を紗弥は微笑ましいわねと笑った。

 しばらくすると、正吉が平八郎の部屋へとやってきた。
「紗弥さんに聞いたぜ。おめぇ、晋さんに稽古をつけてもらったんだって?」
 珍しいなと言われて、
「剣もまともに扱えぬようでは戦えぬからな」
 だからだと唇を尖らせれば、胡坐をかいて座り平八郎の頭をなでた。
「そうかい。頑張ってんな」
「だろう? なぁ、正吉も兄上から剣術を学ばぬか?」
 辛い稽古も正吉がいれば半減するかと思ったのだが、平八郎の考えなどお見通しのよいうで、
「いくら名字帯刀(みょうじたいとう)を許されているとしても嫌だね」
 と断られる。医者にも名称を名乗り刀を所持することを許されているのだが、刀は持っていない。
「そうか」
 正吉は医者として忙しい身だ。それに剣術を学ぶ必要もない。
「俺の腕っぷしはそこそこ強ぇぇから、おめぇを守ることはできるしよ」
 まぁ、確かに小さな頃から喧嘩は強かった。自分よりも体格の良い相手にも引けを取らなかったくらいだから。
「お主が強いことは知っているよ。小さな頃からずっと見ていたからな」
「なッ」
 その言葉に何か躊躇うような表情を見せ、それから平八郎から顔を背けた。
 どうやら平八郎が言った言葉に照れたようで。それに気が付き、
「なんだ、お主、照れておるのか?」
「はっ、照れてなんかねぇや」
 目の下をほんのりと赤く染めて口元を手で覆い隠す正吉に、珍しく平八郎の方がやりこんでいた。
「どうれ。顔を見せてみよ」
 調子にのって正吉の顔を覗き込むようにすれば、身体が痛んで「痛ぃ」と動きが止まる。
「へっ、天罰だな」
 と痛い個所を叩かれて涙を浮かべる。あっという間に正吉に形勢逆転されてしまった。
「おめぇが俺を負かせようなんざ、百年はえェよ」
 当て布を取り出し芋薬を塗り、それを平八郎が痛いと訴える箇所へと貼っていく。
 里芋、小麦粉、生姜を混ぜてつくった炎症を鎮めてくれる作用があるという。
「今日はおとなしく寝てな。傍にいてやっからよ」
 診療所も休みで予定が無いのだという。
 一緒に居られるのはすごく嬉しい。正吉が傍にいると落ち着くし、一緒に話をするのも楽しい。
 それが顔に出ていたようで正吉もそんな平八郎を見て口元を緩めていて。正吉も自分と同じ気持ちなら嬉しいなと平八郎は思った。
 丁度、芋薬を貼り終えたあたりで、
「平八郎、入りますよ」
 と紗弥が襖を開けてお盆を手に中へとはいってきた。
「羊羹」
 先ほどの言葉を思いだし、つい声に出てしまった。
「平八郎、はしたないですよ」
 と叱りつける紗弥にすみませんと頭を下げる。
「はは、平八郎は子供だな」
「全くです」
 笑う正吉に呆れる紗弥に、恥ずかしくて平八郎は頬を染めて俯く。
「正吉、ゆっくりしておいきなさいね」
 そういうと紗弥が部屋を出ていく。
「ほら、平八郎」
 羊羹とお茶をお盆に乗せたまま手渡され、それを受け取る。
 少し濃いめのお茶と甘い羊羹は絶妙に合う。
「美味そうな顔して」
「だって美味いもの」
 と大きく口をあける。そんな平八郎を見ながら微笑んだ正吉が自分のを一切れ皿にのせてくれた。

 正吉が平八郎に甘いのは幼き頃からだ。
 将吾と平八郎は武家の出であるが、正吉は薬種問屋の息子であった。
 武家同士ともあり、もともと将吾とは仲が良かったのだが、正吉とは出会いは違った。
 幼き頃のことだ。団子を食べすぎてお腹を痛くして蹲って泣いていた平八郎に、
「どうしたんでぇ」
 と声を掛けてきたのが正吉だった。
「おなかがいたいの」
「そうかい。じゃぁ、ウチにきな。よくきくくすりがあっからよ」
 もう泣くなよと懐から手拭いを取り出して涙を拭ってくれて、手を繋ぎ家へと連れていってくれて、薬を貰い暖かい部屋で休ませてもらったお蔭ですっかりよくなった。
 出されたお饅頭を平らげた時には、「もうでいじょうぶだな」と笑われ、恥ずかしいと思いつつもなんだか嬉しかった。
 送っていくよと手を握りしめられ家へと向かう。彼ともう少し一緒にいたいと思っていたので、また手を繋いで歩けることが嬉しかった。
「おめぇ、おぶけさまなんだな」
 立派な門を見上げて、
「じゃぁ、けぇるから」
「まって、おれはへいはちろうっていうんだ。おぬしは?」
「まさきち」
「そうか。まさきち、またな」
 手を振って見送れば、それに応えるように正吉が手をあげる。
 それからというもの平八郎は将吾と共に正吉と遊ぶようになった。すっかり仲良くなった三人は身分など関係なく町中を駆け巡ったものだ。
 大切な竹馬の友だ。誰かの身に何かあればすぐに飛んでいく、落ち込んでいれば傍にいて慰めてくれる。
 ずっと仲良くできたらいいなと、正吉を見れば、口角を上げ頭を撫でられた。
 正吉にとって、自分は今だ手のかかる童のようなものなのだろう。
 それに関してはもやもやとするものがあるが、甘やかしてくれと心がほっこりとするのだからしょうがない。

 いつの間にか寝ていたようで、起き上がると隣で正吉が寝ていた。
「正吉、起きよ」
 身体を激しく揺さぶると額に手をやり唸り声をあげる。
「うう、もうちょっと優しく起こせねぇのかよ、おめぇは……」
 うっすらと目を開ければ、すぐ近くに平八郎の顔がある。
「もう酉の刻だぞ」
「なんでぇ、もうそんなか」
 酉の刻(17時~19時)とはおもわなかった。まだ完全に目覚めておらず、のろのろと起き上がり這いながら布団から出る。
「あ……」
 片手で頭を押さえたままの正吉に、
「お主、相変わらず寝起きがわるいな」
 と呆れた様子で言われた。
「はぁ、おめぇの寝顔を見てたら、俺も眠くなってよ」
 まだ少し眠そうな正吉の、両頬に手を添えて動かす。
「なんだぁ」
「起きろってね」
 変顔にして、けたけたと笑う。
 遊ぶなと額を小突かれて頬から手を離した。
「さてと、そろそろけぇるわ」
 見送ろうとするが、そのままでいいと立ち上がる。
「そうだ。今度、将吾の所に酒をもっていこうぜ」
「うん」
 与力や同心は町奉行所に近い場所に屋敷を与えられており、将吾は使用人と共に住んでいる。  この頃、三人で集まるときはもっぱら将吾の屋敷でとなっていた。