噂
保健室で吾妻と偶然に出会った。
だが、それから数日が過ぎたが吾妻と顔を合わせる事は無く、たまに見かけても不機嫌な顔をしていたり、後ろ姿だったり。
吾妻から渡された携帯電話とメールアドレスの書かれたメモは未だ部屋の机の引き出しの中に入ったままで、時折、穂高先生の言葉が頭をよぎり、その度に引き出しに手をかけるのだが結局やめてしまう。
何を話せというのだろうか。相手は噂の絶えないあの「吾妻」なのだ。
◇…◆…◇
昼休み。
今日は真一と久遠も外せない用事があり教室にはいない。
桂司兄ちゃんの所に行こうと思ったが、真一から教室の中に居ろと釘を刺されており、俺は仕方なく教室で本を読んでいた。
本当は教室なんかに居たくない。
俺は何も取り柄のない生徒で、勉強の出来は良くないしスポーツも得意な方ではない。
そんな俺が成績優秀な真一と学校のアイドルである久遠の傍にいて、仲良くしている姿を見るのが面白くないと思うクラスメイトもいたりする。
二人が居ないとあからさまに嫉妬の視線を浴びせられたり、悪意を持った言葉を投げかけられたりして俺の胸を容赦なくえぐるのだ。
胃がキリキリと痛む。
俺は弱くて情けない男だ。言い返すこともできずに耳を塞いでしまう。
結局、真一に言われたことは守れなかった。耐える事の出来なかった俺は逃げるように教室を後にした。
向かった先は屋上だった。
昼休みの間だけの居るつもりだったのだが、あと少しだけと思っていたら予鈴が鳴ってしまい、結局そのまま五時間目をサボることにした。
教室に居ない俺を心配して探さないように、真一と久遠には「お昼を食べすぎて気持ちが悪いので外の風に当たってます」とメールを送信する。
きっと後で真一に怒られるだろうな。言いつけを守らなかったのだから。
だが、ここには吾妻の姿はないし、予鈴が鳴った時点で俺以外の生徒は教室に戻った。だから今は一人きりだ。
きっと吾妻も俺の気持ちを解ってくれたんだろう。携帯の電話番号とメールアドレスを俺に渡したのに連絡もしないのだから。
だから吾妻も俺を追い回すような真似をしないでいるのだろう。
一人きりの満喫するように、空を眺めながらゆっくりと伸びをしてフェンスに寄りかかっていれば、出入り口のドアが開く音がして俺はギクッとする。
授業が始まっている事を考えると、生徒の誰かがここにサボりに来たのかもしれない。
どうしよう。
ドキドキする胸に手を当て、どこかに隠れようかと周りを見渡す俺に、相手はお構いなしに近づいてきてくる。
だが、その相手の顔を見た瞬間、俺は血の気を失った。
「……吾妻」
「よう、優」
吾妻が口角を上げていつもの様に極悪面を見せる。
なぜここに? と、そう尋ねる前に吾妻がここに来た理由を話しはじめる。
「実さ、アンタが屋上に向かっているのを見かけてな。まさかまだ居るとは思わなかった」
ラッキーだぜ、と俺の傍へ近寄り同じようにフェンスに寄りかかった。
姿が見えないからと油断していた。
吾妻はまだ諦める事無く、俺が一人になるのを狙っていたというのか!
でも、それなら屋上に行く間、真一も久遠もいない事を知っていてついて来なかったのだろう。
好きだと告白してきたのは、ただ、俺をからかう為に言ったのではないだろうか。
俺は吾妻を盗み見るように見つめれば、じっと俺を見つめる吾妻の視線がぶつかりあう。
「な、何見ているんだよ」
吾妻を見ていた事、そして吾妻が俺を見ていた事が妙に恥ずかしくて視線を外す。
「好きな奴を見ていたいって、フツー思うもんじゃねぇの?」
と恥ずかしい事をさらりと口にした後。
「本当はさ、すぐにでも追いかけようって思ったんだけど、アンタ以外に誰かいたらまた変な噂がたっちまうかなって」
俺を追いかけなかった理由は、俺に気遣っての事だったのか。
前に吾妻に呼び出しされた時にも噂がたった。
大抵は「調子にのっているから」だとか「いつかシメられると思った」とか「ザマアミロ」とか、酷いもので。
心配をしてくれたのは真一たちとごく一部のクラスメイトだけだった。
「そっか」
傍に真一や久遠が居る時は悪口を言う奴はあまりいないのだが、居なくなった途端に遠慮のない言葉や視線を向けられる。
「優の噂ってさ、一人歩きしている所があるからな」
そう言って吾妻はその場に腰を下ろした。
俺も隣に腰を下ろして吾妻の言葉の続きを待つ。
「俺が優に興味を持ったのは、たまたま陰口を耳にしてさ」
「そう、なんだ」
自分の全てを否定するような罵詈雑言。幼馴染というだけの特権で真一と久遠の傍にいるのが許せないと。
二人に相応しくないと言いたい事は解っている。平凡な自分が学校で目立つ存在である二人のすぐ近くにいるのだから。
気持ちが沈んでいく。
膝をぎゅっと抱きかかえるように丸くなる俺に、ふわりと大きな手が髪に触れる。視線をあげて吾妻を見れば、優しい目をしていた。
「どんな奴なのか見てやろうって、初めはそんな軽い気持ちだった。でも噂は噂でしかなかった。優の事をよく見ていればちゃんとわかるのにな」
優が二人を惹きつけているのになとぽんと頭の上に手を置く吾妻。
自分の事をちゃんと見てくれてそう言ってくれたのは幼馴染たち以外ではじめてだった。
それ故に恥ずかしくなってきて頬が熱くなる。
「な、何を、言って……」
あたふたとする俺に、
「なぁ、俺の事を好きになれよ」
そう、真っ直ぐと見つめながら言われて。俺は困ってしまって俯いた。
こたえられずに黙り込む俺に、
「クソっ、駄目かぁ」
と、前髪を乱暴に混ぜた後に大きく息を吐いた。
真剣に俺の事を想ってくれている、その吾妻の想いが伝わってくる。
俺の事をそんな風に見てくれる人が居るなんて思わなかったから。
だから嬉しい。でも想いに応えることはできない。
「ごめん」
「謝るなって。ま、しょうがねぇよ。俺はこんなだし。それに男に好きって言われたってなぁ、困るよな」
そう、苦笑いを見せて吾妻はコンクリートに寝ころんだ。
「でも俺はあきらめねぇからなッ。好きだ、優」
そう言うと俺に笑顔を向けた。
いつも見せるような怖い笑顔ではなくて柔らかい笑顔。
そんな表情も見せるんだね。
見惚れる俺の頬に、吾妻の手が触れて……。
「吾妻?」
あっという間に唇を奪われ、そのままコンクリートの上に組み敷かれ、両手の自由を奪われてしまう。
「んッ……」
啄むように何度もキスをされ、うっすらと開いた俺の唇に吾妻の舌が入りこんで口内を弄られる。
歯列をなぞり舌が絡み、くちゅっと水音をたて、芯が甘く痺れて熱を生む。
なんともいえぬ高揚感に、このまま溺れてしまいそうになるが、完全に落ちる前に吾妻の唇と熱が離れた。
「わりぃ、優があまりにも可愛いから」
目元が赤く染まり、色っぽい顔をした吾妻の顔が近く。
それにドキッと胸が高鳴って、俺はぎゅっと胸元を握りしめる。
「キス、止められなかった」
申し訳なさそうにがりがりと頭をかく吾妻。一応は反省しているみたいだし、俺もキスに溺れかけていたので何も言わずに黙っていれば。
「俺さ、実は恭介サンとナオ……、あ、穂高先生とクラスメイトの川上に告白の事を話したんだ」
「な、なんだって!?」
まさか、例の事も話してしまったのではないだろうか。
俺は恐る恐る吾妻の顔を見れば、何を言いたいのか気が付いたようで。
「キスした事も言っちまった」
悪気のない顔で、とんでもない事を口にする。
「え、えぇぇぇ!!」
それを聞いて俺は顔を真っ赤にさせる。
穂高先生は俺が怪我をして保健室に行った時には既に、俺が吾妻にキスされた事を知っていたという訳だ。
「でさ、おもいきりグーで殴られた」
あれは痛かったぜと、その痛みを思い出したのか頭をさする吾妻だ。
殴られて当然と、そう言いたい所だが、吾妻の痛そうな顔を見ていたら少しだけ可愛そうだなと思ってしまい、俺は吾妻の頭に手を伸ばしてその箇所を優しく撫でる。
そんな俺を目を見開きながら見つめる吾妻だったが、見る見るうちに顔が赤く染まっていく。
「え、あ、ごめんッ」
弟や妹にするように、つい、頭を撫でてしまった事が癪に障ったのかな。
俺は慌てて手を引くが、怒りが収まらないようで両肩を強く掴まれてしまう。
「吾妻っ」
「わりぃ。先に謝っとく」
何故か俺に詫びを入れてくる。
どういう事なのか尋ねようとした所に、俺の唇は吾妻によって再び奪われた。
流石に今度ばかりは手が動き、吾妻の頬を張る音が屋上に鳴り響いた。
◇…◆…◇
授業中の教室に戻った俺に、授業をしていた先生が大丈夫かと声を掛けてくる。
真一が上手く言っておいてくれたのだろう。ありがとうと目配せをして席に座る。
「大丈夫?」
と、俺と席の近い久遠が心配そうな表情をしながら声をかけてくる。
そんな久遠に申し訳ない気持ちになる。実際はただのサボりなのだから。
「うん、大丈夫だよ」
そう言葉を返し、教科書を取り出した。
あの後。
「くぅ……! てめぇ、舌噛んだろーが!!」
吾妻に怒鳴られて、俺は飛び上がるほど驚いた。
つい手を出してしまった事に、サッと血の気を失う。
今度こそ殴られるかもと、吾妻から逃げるように後ずさるりながら出入り口のドアへと向う。
だが、当の本人は俺を追いかけてくることもなく、教室に戻るのだと思ったようで。
「メールでも電話でもいいからくれよ」
と、俺に手を振る。そんな吾妻に返事も無しに背を向けて、俺は教室へと急ぎ足で戻ったのだ。
吾妻の頬にくっきりと残る手跡。
それを見かけた生徒が噂を流し、放課後には既に学校中に知れ渡ったようだ。
二股をかけていて叩かれたとか、無理やりやろうとして叩かれたとか、まぁ、女絡みの内容ばかり。
実際は俺がつけた痕なんだけどね。
適当な噂を聞いていると、吾妻に対する噂はただの噂でしかないのかもしれない。
屋上で、別れ際にメールでも電話でもと言われた事を思い出す。
無理。
絶対に無理。
でも……。
どうしてこんなに気になるんだろう。
本当に無理なの? と自分の心に問いかけている自分もいる。吾妻の事を知りたいと思い始めているのではないだろうか。
心が揺らぐ。
こんな風に思う事なんてはじめてかもしれない。
俺はその思いに困惑しながら、ポケットの中の携帯をぎゅっと握りしめた。