ファミーユ
夕食の準備をしながら亮汰の帰りを待つ。
仕事以外で誰かのために腕を振るうのは、日本人の友人が帰国してしまってから久しぶりのことだ。
「ただいま」
「おかえり」
玄関まで迎えに行くと、亮汰が瞬きもせずにこちらを見上げていた。
「え、どうした?」
「あ、いや、エプロン」
カフェエプロンとかギャルソンエプロンとか呼ばれている、腰から下のエプロンを巻いていた。
「これな。似合うか?」
くるりと一回転してみせる。
「似合っている」
そう真面目な顔で返されて、妙に照れくさくなる。
「メルシー」
亮汰に良く思われたいので、その言葉は素直にうれしい。
「それにしても、いい匂だな」
キッチンからローストされた肉のいい匂いが漂ってくる。
「そろそろ焼き上がるから。お風呂にはいっておいで」
「そうする」
その間に冷蔵庫で冷やしておいたカルパッチョをガラスの器によそい、ソースを作っておく。
料理に合わせて赤ワイン(ヴァン・ルージュ)も用意しておいた。
唯香が用意したのだろう、可愛らしいランチョンマットをテーブルに敷き、その上に食器を置いた。
準備はこれでできた。後は亮汰を待つだけ。すると、ほこほこと湯気をたててキッチンへと入ってきた。
ほんのりと石鹸のいい匂いがして、ほんの一瞬、亮汰の方へと引き寄せられた。
「隆也さん?」
「ん?」
気がつけば亮汰の顔が近い。目があい、身体を離した。
「湯上りっていい匂いだよな」
「わかるわ、それ」
同じボディソープやシャンプーを使っているのに、他の人から匂う香りがよくかんじたりする。
そう口にした後に、
「朝、隆也さんもいい匂いだった」
と言われて、おもわずかたまってしまった。
「何を……」
その言葉に深い意味などないのだろうが、胸が激しく波打つ。
「隆也さん、美味しそう」
切なく見上げられて目を見開く。それって、そういう意味なのか?
ごくりと喉が鳴る。
だが、亮汰の視線は隆也からキッチンのオーブンへと向けられた。
「あぁ、そっちね」
何を考えているのだろうか。亮汰に対して。
「それ以外、あるのか?」
と言われて気持ちをきりかえる。
「何もないよ。今、用意するから」
棚から皿を取り出してローストした鴨をのせる。
「美味そう」
それを眺めながら亮汰が席に座る。
「マグレ・ドゥ・カナール。鴨の胸肉のローストだよ」
あとはオレンジソースをかけて、これで完成だ。
「へぇ。鴨なんて、鴨南蛮でしか食ったことない」
「あれは美味いよな」
「フランスにも蕎麦屋があるんだ」
「あるよ」
日本食の料理屋はけっこうある。
その中には怪しい日本料理をだしてくる店もあるが、その蕎麦屋はきちんと日本で修業してフランスで店を出したところだ。新蕎麦を食べられたときには偉く感動したものだ。
「ご飯も食べる?」
「食べる」
亮汰の為にお米を炊いておいた。
「頂きます」
手を合わせて鴨を一口。ほぅ、と、ため息をつく亮汰の口元は綻んでいた。
よかった。その表情を見たかったんだ。
食べやすくカットしておいたので、箸で掴んで食べている。
その姿を眺めていれば、朝と同じ顔をされた。
「俺、鬱陶しいっていったよな」
「はい。言われました」
本気で睨まれたので、つい敬語で返してしまう。
「まったく。俺の食いっぷりを見て何が楽しいんだか」
「作った者からしてみれば、美味そうに食べてくれるのは嬉しいものだよ」
「そうか。でも、見てないで食べろよ、暖かいうちに。美味いんだからさ」
料理が冷めてしまうのが気になるようだ。
「そうだね」
自分が食事をするよりも、亮汰が美味そうに食べる姿を見ているだけで十分だった。
だが、今度は亮汰がこちらを見ていた。きっと隆也が食べるまで見ているつもりだろう。
一口大にカットして口に運ぶ。
「うん、うまくできてる」
それを見て亮汰も再び食べ始めた。
食事を終えた後、リビングへと移動しお茶を飲む。
隆也には一つ気になることがあった。部屋をかしてくれてはいるが、亮汰は唯香と一緒に暮らすことになる。
どこに暮らすのかはわからないが、いつまで自分は亮汰の所に居てよいのだろうか。
「亮汰。唯香ちゃんといつ一緒に住むの?」
「実はさ、新築を買ったんだけど、決めたのが最近でな。入居まで一カ月まちなんだ」
だから隆也を泊めてくれたのだろう。
「じゃぁ、それまで一緒に住まないのか?」
「あぁ。向こうの親御さんが、その日まで唯香と一緒にいたいって」
だから焦らなくて大丈夫だといわれるが、隆也がいるかぎり唯香が遠慮しかねない。
やはり早いうちに住まいも決めなければならないだろう。亮汰の世話をやけなくなるのは寂しいけれど。
「そうなんだ。でも明日、不動屋さんへ行ってくるよ」
と名刺を見せる。
「朱堂さんの所か」
「亮汰も知り合い?」
「あぁ。同じ空手道場に通っている。カッコいいおじさまって感じ」
まさか亮汰が空手を習っているとは思わなかった。血を見るのが怖い、殴り合いなどしたくない、そんな子供だったのに。
しかも亮汰の表情からして、朱堂とはかなり親しそうだ。
「そうなんだ。で、亮汰はどうして通うようになったの?」
「デスクワークだからさ、運動不足とストレス解消に」
確かに、儚さはなくなり立派な男になっていた。そっと腹筋へと触れると硬かった。
「すごいな、ガチガチ」
「割れてるぞ、俺の腹」
と服を捲って見せてくれた。
「いい身体してるな」
綺麗な筋肉がついている。再びそこへ触れると、くすぐったいと身をよじり服を元に戻した。
「昔は喧嘩とか、怖いと言っていたのにな」
「今なら隆也さんにも勝てそうな気がする」
「余裕で勝てるよ」
今なら簡単に押さえ込まれてしまうだろう。
「亮汰に殴られないように気をつけようっと」
「はは、大丈夫。素人には手を出さないから」
と背中を強く二度ほど叩かれた。
「うっ」
本当に力が強くなったものだ。
「隆也さん、焦って部屋を探さなくていいから。それにしばらく一緒に住みたい」
いいでしょう? そう甘えるように顔を覗きこまれてドキッと胸が高鳴った。
昔から隆也のツボをつくのがうまい。可愛い奴め、そう思いながら亮汰の頭を撫でる。
「俺も亮汰と一緒にいたいから、お世話になるよ」
すると、つり目がすこし垂れて目尻が真っ赤にそまっている。
亮汰の表情に、胸の鼓動が落ち着かない。隆也は気持ちを落ち着かせるように深く息を吐いた。
「そうだ。桜ちゃんから連絡があって、俺の実家に隆也さん連れて行けっていわれたんだけど」
可愛い亮汰にほんわかとしていたのに、一気に現実に引き戻された。
「あ……、亮汰にも話したんだ」
「実家には、俺の方から連絡しておくからさ」
「うん、よろしく」
これで行くことは決まってしまった。亮汰と一緒だから聞きたくない話しも聞くことになるだろう。
飛び跳ねていた胸が、今度はしくしくとし痛みだした。