兄と幼馴染

 すべて覚えている。抑えきれぬ欲が平八郎を襲い、その身体を汚そうとしたことを。
 あの時の自分はどうかしていた。血のつながりはなくとも弟なのだといいながらも、そういう目でみていたということなのだから。
 家族だと傍にいる資格などない。もう、兄として平八郎に合わせる顔がない。

 目を覚ませばそこは自室で、布団の上へと寝かされおり、傍には忠義の姿があった。様子がおかしかったからと心配して来たのだという。
「そうか、すまぬな」
 心配してきてくれたのは嬉しいが、今は忠義とも顔を合わせたくはなかった。正吉が言っていたことが胸につかえているからだ。
「晋さん、具合が悪いのか?」
「いや、なにもない」
 会話が途切れてしんとなる。どうしたものかと忠義が様子を窺っている。
 このまま正吉のことをもやもやさせて剣術の稽古へ行っても身に入らないだろう。それならと意を決して口にする。
「お主は正吉が道場に来ていたことを知っているな」
 晋は忠義を真っ直ぐと見れば、気まずそうにうなずいた。
「あぁ。今は兄に指導を受けている」
 四つ上の信孝の剣術の腕に憧れている。西のほうで修業をしていたのだが、つい最近帰ってきた。
 手合わせをしたいと何度も頼んだが、出稽古で忙しく道場にいることはあまりく、その願いは今だ叶っていない。
 肯定だけではなく、聞きたくないことまで知ってしまった。
「ふざけるなっ。皆、なぜ、俺ではなく正吉を選ぶんだ!」
 忠義の胸倉をつかみ激しく揺さぶる。
 今ここに怒りの矛先をぶつける相手が忠義しかおらず、八つ当たりをする。
「なぁ、俺ではだめなのか? 答えよ」
「俺は、晋さんが一番だ」
「嘘を言うな。それならなぜ、黙っていた」
「ごめん、晋さん」
 きっと晋には黙っていろと言われたのだろう。薬屋の息子が剣術を習うなんておかしいと言いだすから。
 それに、父と師匠に言われたことを忠義は守っていただけだ。
「いや、謝るな。お主は何も悪くないのに」
 悔しい。
 はたから自分など用なしだった。
「晋さん」
 忠義の腕が晋を強く抱きしめる。自分より五つも下だというのに、ずっと大人だし優しい。
「なぁ、忠義」
「はい」
「正吉ときちんとした勝負をしたい。立ち会ってくれぬか?」
 平八郎に知られぬように勝負をしたいと申せば、忠義はわかったと頷いた。

 それから二日後。道場で忠義立会いの下、正吉と勝負をした。
 結果は無残なものだった。相手にすらならなかったのではないかと思う程に。
「くそッ」
 自分の中でけりをつけるつもりだったのに、自分の弱さに悔しさばかりが残る。
「晋さん」
 そんな自分を心配して傍へとくる忠義に、近づくなとばかりに竹刀を投げつける。
「放っておいてくれ」
 そういうと力なくふらふらと道場を後にした。

◇…◆…◇

 あの日の出来事は晋と平八郎の間を気まずくさせた。
 目が合えばそらされるし、会話も必要最低限のものだけとなった。
 輝定には晋が幻妖に囚われてしまったことだけは話してある。ゆえに二人の関係が気まずいことも口出をしてこなかった。

 元気のない平八郎に正吉が団子を奢ってくれたのだが、大好きな団子もまったく味がしない。
「今日も避けられてしまったよ」
 いつもなら正吉の背中に寄りかかる平八郎だが、今日は俯いたままである。
 正吉は何も言わずにただ平八郎を見つめている。
 もしも晋の想いを受け入れていたのなら、こんなことにはならなかったのだろうか。
「俺が兄上のことを……」
 と言った後に平八郎はぐっと言葉を飲み込み正吉を見る。
 犯されそうになった時、正吉の表情はまるで鬼のようだったからだ。
「おめぇ、受け入れればよかったとか言うんじゃねぇだろうな?」
 強い力で肩を掴まれて揺さぶられ、団子が地面へと落ちる。
「正吉ッ」
 名を呼べば、すまねぇと懐から小銭を取りだして、平八郎の手を掴んで団子屋を後にする。
 向かった先は団子屋から近い河原だ。引かれたままの手が離れて向い合せに立つ。
「無理やり行為に及んだって、結局はどっちも不幸になるだけだろうが」
 馬鹿なことを考えるなと頭をぺちっと叩かれた。
「ごめん」
 確かにその通りだ。きっと気まずい思いを互いに一生抱くことになるだろうし、無理やりしていたら自分も兄上を避けるようになっていただろう。きっと顔すら見られなくなりそうだ。
「辛いかもしれねぇが、晋さんの気持ちが変わることを信じて待つしかねぇ」
 だから変なことを考えるなと背中を叩かれて平八郎はこくっと頷く。
 正吉の言うとおり今は信じて待つしかないのだ。
「わかった」
「よし。じゃぁ、駄目にしちまった団子のかわりに飴を買ってやるから」
 行くぞと正吉が平八郎の腰に手を添えて歩く。まるで慰めてくれているかのようだった。

 小さな頃から飴細工を見るのが好きだった。職人の手から次々と動物が出来ていくのをワクワクしながら見ていたものだ。
 鶴の飴を作ってもらいそれを受け取った平八郎に、
「平八郎、違和感ねぇな」
 と正吉が言う。それは遠まわしに子供っぽいと言っているのだろうか。ぷぅっと頬を膨らませばクツクツと笑う。
「そうしてっと余計にガキだなおめぇは」
 その言葉にむっとして正吉の足を思い切り踏んづけた。
「いってぇ」
 踏まれた足を持ち上げて睨む正吉に舌を出して歩き出せば、直ぐに正吉が追い付き後頭部を叩かれた。
「む、やったな!」
 それに対して仕返しと脇腹をこちょぐると手に持っていた飴を奪われた。
「あっ」
「悪戯するガキにはやんねぇ」
 舌をだしそれを舐める正吉に、つい目が奪われる。
 ずくっと下半身が疼く。
 慌てて視線を外すけれど、その様子にどうしたんでぃと正吉が顔を覗き込んできた。
 そう、それは自分の体を鎮めるためにしてくれた行為。
 それを思いだしてしまって顔が熱くなってくる。
「平八郎?」
「え、あぁ、何でもない。何でもないぞ。というか飴を返せ」
 正吉の手から奪い返す様に飴を取り上げて口の中へと入れれば、甘く優しい味がして気持ちがすこしだけ落ち着いた。
 飴を食べる平八郎の姿にふっと笑みを浮かべる正吉だ。
 また馬鹿にされたのかと思いムッとしたが、その目があまりに優しげで胸がざわつく。
 正吉はどんな気持ちでしてくれたんだろう。医者だからと割り切っていたのだろうか。
「おい」
 もしも他の人にも頼まれたらどうするのだろう。自分にしてくれたようなことをするのだろうか。
「平八郎」
 正吉の手が頬を包み上を向かされ、心配そうに平八郎を見ている。
 その顔を見た瞬間、
「正吉は頼まれたら誰にでもするのか?」
 と思っていたことがぼそっと口に出た。
「え?」
「あっ!」
 慌てて口を手でふさぐが既に遅しだ。その手を正吉に掴まれ何がだと聞かれる。
 どうしようと目を泳がせる平八郎に、話を促す様に正吉が顎をしゃくる。
「あの時、正吉がさ、俺の体を鎮めるためにしてくれたことだよ」
 ぼそぼそと口にすれば、はぁとわざとらしいため息をつかれた。
「おめぇだからだろ」
 と額を小突かれる。
「それって……」
 自分だからしてくれたのだと言う正吉の言葉に混乱する。
「よく考えな」
 そういうと胸を拳で軽く叩く。自分の胸に聞いてみろと言いたいのだろう。
 正吉が帰った後、一人その場に残った平八郎は手を胸を当てる。
 平八郎だからしたということは、他の人にはしないということ。それは特別ということだろうか。
 胸がざわつく。この感情が一体何なのか、時間がかかっても答えをださねばならない。