託された刀
それから団子をたらふく食うた後、腹ごなしに少し遠回りをして帰ることにした。
その途中、川辺の一角で野次馬ができており、二人もその場所へと向かうと、幼馴染の磯谷将吾(いそやしょうご)の姿を見つた。
将吾は南町同心であり、正吉ほどではないが上背があり体格が良い。
「将吾、何があったんで?」
「おう、正吉と平八郎じゃねぇか。あ、待て待て。平八郎にはすこしばかり刺激が強い」
平八郎の視界に触れぬように立つ将吾に正吉がすぐさまに反応する。
河から引き揚げたばかりの死体はまだござで覆われておらず、平八郎の性格を知るだけにそう判断したのだった。
「そうだな。平八郎、見るんじゃねぇよ」
土左衛門だからと死体に目が触れぬようにと正吉がその腕の中へと抱きしめた。
「主ら俺がまだ童だと言いたいのか? 平気だ」
二人は自分のことを思ってそう言ってくれているのだろうが、流石にこの歳で土左衛門を見るのが怖いのかと周りの人に思われるのが恥ずかしい。
だから離せと正吉を突放した。
「気分が悪くなってもしらねぇぜ」
そう正吉に言われ一瞬ためらいそうになったけれど平八郎は土左衛門へと視線を向けた。
それを見た瞬間、平八郎は口元を手で覆う。
水を吸い膨らんでぶよぶよとした白い肌の男女の死体。
もがき苦しんだからなのか、大きく口をあけ喉のあたりをかきむしるような手の形を二人ともしている。
この前、長屋で喧嘩をしていた若い男女を思い出す。
あの喧嘩は仲裁が入ったしなと、けしてこの二人ではないだろうと首をふるう。それなのにどうして嫌な予感しかしないのだろう。
平八郎は怖くなり後退りをすると、
「平八郎、でぇ丈夫か? 顔が真っ青だ」
正吉が両手で頬を包みこんで顔を自分の方へと向かせた。
「正吉、帰ろう」
首のあたりがジリジリとする。
ここから早く離れたくて、正吉の十徳の袖をつかんで引っ張った。
「解った。じゃぁな、将吾」
と将吾に手をあげて正吉が平八郎の背中に腕を回し連れ去ろうとした瞬間。ぞくりとしたものが背中にはしり殺気を感じ振り向いた。
「え、おい平八郎!?」
死体の口からぶわっと黒い霧がたちのぼり平八郎めがけ一気に襲い飲み込まれる。
「うわぁぁッ!」
常闇の世界。
周りにいた筈の野次馬も、傍にいた将吾と正吉の姿がない。
たった一人でこの異常な場所にいる。
それがとてつもなく怖い。
それにまるで水の中にいるかのように息が出来なくて喉を抑えてもがき始める。
そのまま崩れそうになる身体を抱きあげられ、一気に常闇から現実へと視界が戻り。それが正吉のモノだと気が付いて震えながら縋りつく。
「正吉、助けて」
黒い霧は再び平八郎を飲み込もうとしている。
「平八郎!! クソッ、なんなんでぃこの黒い霧は」
「おい、お前等いきなりどうしたんだよ」
その黒い霧が見えぬ将吾には、いきなり二人が騒ぎ出したとしか見えず。心配そうに二人を交互に見ていた。
それは此処にいる野次馬達も一緒の様で、何事かとこちらを見ていた。
「すまん、将吾。後で」
これ以上ここで騒ぎ立てれば、死体を見て平八郎と正吉の気が触れたと噂が起ち家にまで迷惑をかけてしまう。
震える声で平八郎がそう言うと何か理由があるのだろうと察してくれた様で将吾は何も言わずに野次馬をどけて道を作ってくれた。
それを有りがたいと思いながら正吉に手を引かれこの場から離れる。
きっと此処から離れれば黒い霧も消えよう。その思いで我武者羅に走った。
なのに黒い霧は消える所か二人を飲み込もうという勢いだ。
「正吉」
「でぇ丈夫だ。俺が一緒にいるから」
平八郎を地へと下ろしてその身を守る様に抱きしめてくれて。怖いのに守られていることに安堵感を感じる。
正吉と共になら常闇も平気かもしれない。もし、このまま逝くようなことになっても構わないとすら思えてきた。
「正吉、俺とずっと一緒にいてくれるのか?」
「あぁ。俺ァ平八郎と一緒に死ねるなら本望だぜ?」
と、髪を撫でる。
このまま幸せな気持ちに包まれて二人で死のうとそう思っていたのに。
「平八郎様、正吉殿、しっかりしなされ! 黒い霧の欲に飲まれてはいけない」
心を貫くような声と良い声で響く経が耳に届き、幸福な気持ちをかき消して二人を我にかえした。
その声の方へと向けば天安寺の住職と、空玄(くうげん)が経を唱えていた。
「お腰の八重桜で黒い霧を斬りなされ。空玄が抑えている間に」
八重桜の名を口にする住職に従うように平八郎は鞘から刀を抜きとる。すると刃の部分が淡い桜色の光をまとっており、こんな時だというのにその美しさに見惚れてしまう。
「おい平八郎、しっかりしやがれ!」
正吉に頭を叩かれ我に返った平八郎は住職に言われた通り黒い霧を斬る。すると霧が晴れるかのようにサッと消えてなくなった。
「……消えた?」
目の前の出来事が信じられないとばかりに刀を見る平八郎と正吉の所へ住職と空玄が近寄る。
「良かった。心を完全に囚われる前で」
空玄が胸をなでおろしながらそう言う。
ぞっとする。
二人が此処に来てくれなければ正吉と共に命を絶っていたに違いない。
「助けて下さってありがとうございます」
そう二人に向かって頭を下げれば、やめてくださいと平八郎と正吉に頭をあげる様にとその肩に触れる。
「いいえ。私がもっと早くに平八郎様にこうなるかもしれないということをお伝えしていれば……」
「住職、それは一体」
どういう意味なのだろう。
平八郎が黒い霧を見るようになった理由を前もって知っていたのだろうか?
知りたい。自分の身に起きていることを。そして受け継いだ刀のことを。
「詳しいことは天安寺で。輝定様もいらしておりますゆえ」
知っていること全てをお話しますとの言葉に平八郎は頷き。
「正吉も共に」
と、袖を掴む。
「俺が聞いてもよい話なのでしょうか?」
医者の仕事をしている時の様に丁寧な言葉遣いで尋ねる正吉に、住職は平八郎がそう望むのならと共について来るように言った。