後輩は先輩に片思い中
今、一人になったら泣いてしまいそうで、真っ直ぐに家に帰らずに江藤の喫茶店へと向かう。
外から店の中を覗けば、会社が休みの所が多いせいか客の入りはまばらだ。
真野はドアの前で一つ息を吐き捨て、笑顔を浮かべるとドアを開けた。
「いらっしゃいませ。って、あれ、真野君!?」
お昼に近い時間帯。まだ動物園にいる筈の真野がここにいる事にいていているようだ。
「動物園に行ったんじゃ……」
「行きましたよ」
カウンターの席に腰を下ろしてホットコーヒーを頼む。
「あ、うん。用意するね」
一先ずは珈琲を入れる事に集中しはじめる江藤をぼんやりと眺める。
きっと気になっているだろう。
きちんと話せるかなと思いながら暫くすると良い香りがして、目の前に珈琲とパンが出される。
確かパンは平日のみの筈ではと思いながらも有りがたくそれを受け取る。
「何かあったの?」
心配そうに聞いてくる江藤に、真野は珈琲を一口飲んで。
それからゆっくりと江藤に視線を合わせてこたえる。
「実はですね。待ち合わせをしていた場所にですね、俺と同じように信崎さんを待つ女性の方がいたんですよ」
驚きましたと大袈裟に驚いて見せれば、江藤は「えっ」と声をあげて目をしばたたかせる。
「元奥さんのお友達とかで、三人で食事にも行ったそうですよ」
信じられないというような顔で黙り込む江藤に、真野はクスクスと笑い声をあげる。
「浩介君も良く懐いていたし。もしかしたら信崎さん、お付き合いするかもしれませんよ!」
そう口にした瞬間、江藤が苦い表情を浮かべて真野を見る。
きっと無理をしていると思っているのだろう。
「江藤さん、そんな顔をしないでくださいよ」
もともと信崎にはフラれているのだから気にしていないと言えば。
「わかった。もうしないよ」
と、江藤はいつものように穏やかな表情を浮かべ。
そうだと声をあげて、ぽんと手を合わせる。
「真野君、今日飲もうよ」
大池も呼んでという提案に、良いですねと提案にのる。
一人になりたくはないし、今は江藤の優しさに甘えたい。
「大池に連絡してみるね」
店の奥に引っ込んで暫くしてから指でOKのマークを作って見せる。
「楽しみですね」
「うん。真野君、またお手伝いよろしくね」
「はい、勿論です」
お酒は大池が買ってきてくれることになり、真野は江藤が店を終えるまでスーパーで買い物をして準備をしておくことになり、家の鍵を預かった。
◇…◆…◇
真野と浩介との三人で動物園をまわる筈だったのに、今、共にいるのは坂下という元嫁の恵理の友人の女性。
絵理と三人で食事を何度かしたことがあり、家庭的で優しい事を知っているし、浩介も良く懐いていていた。
「真野さん、大丈夫でしょうか」
真野の事は気分が悪くなって帰った事を二人には伝えてある。
浩介は真野が帰ってしまった事に泣きじゃくったが、今は信崎におんぶされて大人しくしている。
「明日にでも様子を見に行ってきますよ」
だから今は楽しみましょうと信崎が言うと、坂下は解りましたと微笑んだ。
動物園を後にし、少しお話をしましょうということになり喫茶店へと入る。
そこで、坂下から「結婚前提でお付き合いして欲しい」と言われた。
「俺と、ですか?」
彼女の好意には気が付いていたが、自分に対して結婚を考えているとは思わなかった。
「考えてみて下さると嬉しいです」
そう言葉を締めくくり、帰りましょうと眠そうにしている浩介を休ませてやってくださいと席を立つ。
駅で別れ、このまま信崎は絵理と落ち合う為に電話をする。
ここから信崎の家へ帰るよりも彼女住むマンションの方が近いからだ。
「早かれ遅かれ、アナタから連絡があると思ってた」
どうだったと聞かれて、信崎はため息をつく。
「どういうつもりだ?」
「どういうつもりって、彼女から聞いたわよね。私はそれのお膳立てをしただけよ」
会社で安く買えたからと言って動物園のチケットを渡されたのは方便だった訳だ。
呆気にとられながら絵理を見れば。
「で、アナタはどうなの?」
と、信崎の気持ちを聞いてくる。
「彼女は家庭的で優しいし、浩介も懐いている」
きっと彼女は自分に尽くす良い妻となるだろう。
「なら……」
良い返事を期待しているのか、ぱっと顔を明るくする絵理に対し、信崎は口を開きかけて黙り込む。
動物園で真野が言った「辛い」という言葉を思い出していたから。
(そんな事を言わせたかった訳じゃない)
真野の事を考えていたら、
「ちょっと、話聞いてるの?」
と絵理に言われて我に返る。
「あ、すまん」
ぼっとしていたと素直に謝ったところで、メールが送られてきた事を知らせる着信音が鳴る。
見てよいかと断りを入れてからメールを開けば、相手は江藤からで。家に来てほしいと言う知らせだった。
「絵理、江藤からお呼び出しくらったから行くわ」
「そう。なら浩介はこのまま引き取るわ」
「宜しく頼む」
坂下との事はまた今度といい、寝ている浩介の頭を撫でる。
「じゃぁね。江藤君に宜しく言っておいて」
「あぁ。またな」
江藤のところへと為に絵理に別れを告げ、駅へ向かって歩き出した。
家へ着くと、待っていたとばかりに部屋の中へ連れて行かれ。そこには泥酔状態の真野がクッションを抱えてへらへらと笑っている。
「どうしてこうなったか、お前は解っているよな?」
仁王たちで立つ江藤に、解っているとばかりに頷く。
動物園でのことが原因なのは間違いないだろう。
信崎は真野の傍へ寄るとしゃがみ込んで真野の事を覗き込む。
「あれぇ、のぶさきしゃん」
えへへへと、酔った真野が抱きついてきた。
「この後の事、お前に任せていいよな」
「あぁ。連れて帰るよ」
「よろしい」
真野に立つように言うと、怪しい足取りで起ちあがる。
その身を支えるために真野の腕を自分の方へと回して腰を抱く。
「信崎さん、タクシーを呼びましたから」
下まで一緒に支えますと大池が手を貸してくれる。
「悪い、頼む」
江藤にまた後でと声を掛けて大池と共に外に出る。
「なぁ、真野、どんな様子だった?」
泣いたのだろうか?
そう思っていた信崎だが、大池から返ってきた言葉は、
「信崎さんが幸せなら良いんだって、そればかり言っていましたよ」
と珍しく口元を緩め。
真野らしいと思いませんかと、大池が信崎を見る。
「そうだな」
自分の事よりも信崎の幸せを想う所が、真野らしくて胸が締め付けられる。
ほどなくしてタクシーが着き、またなと別れを告げると、
「はい。真野の事、頼みます」
そう頭を下げる大池に、解ったと声を掛けてタクシーに乗せる。
行先を告げて走り出したタクシーの中。肩に寄りかかる真野の重みを感じながら、外へと視線を向けた。
寝たまま起きない真野を家へと連れて行きベッドへと寝かせる。
真野に嫌われていると思っていた時期があった。
だがそれは、自分を好きだから避けていたのだと知った時、嫌われていなくてよかったと思った。
告白されて信崎の気持ちを正直に話したが、それからも真野はこんな自分を好きでいてくれる。
だからと、それに甘えていた部分もある。
家事をしてもらう事も、その一つ。
お礼だと言って一緒に食事をするときも、駅まで送っていくときも真野はいつも楽しそうで。
そんな彼の顔を見る度にもっと可愛がってあげたいと思うようになっていた。
動物園に誘ったときだって、あんなに嬉しそうで。
自分だって真野と一緒に動物園へ行くのが楽しみだったんじゃないのか?
だから帰るなといったのでは。
「……はぁ。馬鹿だな、俺は」
自分が幸せなら良いなんて、そこまで想ってくれる相手なのに。
これはもう自分の気持ちを認めないといけない。
信崎の中で真野が占める割合がいつの間にか大きくなっていた事を。