菓子パンと後輩の彼
江藤(えとう)が祖父から譲り受けた喫茶店の開店時刻は朝の10時から。だがそれよりも前、7時30分頃にやってくる一人の客の姿があった。
以前務めていた会社の後輩で大池(おおいけ)という男だ。180センチを超える江藤よりも少しだけ背が高く整った顔をしており、眼鏡をかけている。
だが残念なことにあまり表情が変わらない為、冷たい印象を与える。
朝食を済ませ、珈琲を飲みながらスマートフォンでニュースを読む。それは毎朝の日課なのだが、いつも眉間にしわが寄っている。その理由を知っている江藤は笑みを浮かべて焼きたてのパンを差し出した。
メイプルシュガーブレット。
今日のセットメニューで出すつもりでいる品で、スマートフォンの画面を見つめていた目が匂いにつられてそちらへと移る。
「これは?」
「メイプルシュガーブレットだよ」
バターを生地に埋め込んだ後にメイプルシュガーとグラニュー糖を合わせたものをふりかけて焼いたものだ。
焼きたてのメイプルシュガーブレットからは甘い香りがして、それを口にした大池の表情が一気に崩れた。
「先輩、これ、すごく美味しいです!!」
普段は表情の乏しい大池が見せる素直で可愛い表情。それをみた江藤は満足げに微笑む。
「だろ?」
大池はものすごく甘党だ。本当は珈琲に砂糖とミルクを入れて飲みたいのだが、朝が弱い彼は、頭をスッキリ目覚めさせるために敢えてブラックで飲んでいるというわけだ。
あっという間にパンは無くなり苦い珈琲だけが残る。江藤はそれを取り上げ、
「ほら、砂糖入りのカフェ・オレ。もう目は覚めただろ?」
と入れたてのカフェ・オレを目の前に置いた。
「はい」
ブラックの珈琲とカフェ・オレを出した時との反応はえらく違う。良い返事をする大池に江藤は笑いかけた。
「頂きます」
彼の好みの甘さは熟知している。一口飲んでホっとため息をつくと柔らかい表情を浮かべた。
大池が喫茶店へと来るようになったのは江藤の送別会の日の事だった。
滅多に飲み会に参加しない大池が居るだけでも江藤にとっては驚きだったが、
「あの、もしお時間が大丈夫でしたら、この後つきあってくれませんか?」
と誘われたのだ。
送別会が終われば大池とはこれっきりになるだろうとそう思っていたので、誘われた事がすごく嬉しくて何度もうなずいてしまった。
実は大池に恋愛感情をもっていた。
はじめの頃は仕事の話以外しない大池の事は後輩としか見ていなかった。
だが、真面目で仕事熱心なその姿にいつの間にか目が離せなくなり、そして気が付けば好きになっていたのだ。
もっと仲良くなりたくて仕事以外の事を話しかけたり飯を食いに行こうと誘ったりもしたがあまり良い反応はなく。
きっと仕事以外では付き合う気がないといいたいのだろうと江藤はそう思っていた。
それだけに最後の最後に巡ってきたこのチャンス、大池との関係がこれっきりにならないようにしたい。
黙って前を歩く大池について行った先にあったのは小さな焼き鳥屋さんで。それも行きつけ店らしく顔を見るなり女将さんが大池の下の名を呼んだ。
「あら、今日はお連れさんもいるのね」
「会社の先輩です」
カウンター席に座ると上着を脱ぎ、江藤にビールでいいかと聞いてくる。頷くと女将にビールを注文し、ほどなくして目の前に瓶ビールとコップが二つ置かれ大池がコップについでくれる。
大池が参加した数少ない飲み会でも酒を呑んでいる姿は今まで見たことはない。その飲みっぷりの良さから相当酒が好きな事が解る。
「てっきり酒は苦手なのかと思っていたぞ」
知っていれば飲みに誘ったのにと言えば、
「飲める事をあまり周りに知られたくないので」
とそういわれてしまった。要するに飲みに誘われたくないと言いたいのだろう。
大池の言葉に落ち込みそうになったが、それを振り払うように首を振り気合を入れなおす。
折角、二人の飲んでいるのだ。落ち込んでいる場合ではない。
「江藤先輩、何にしますか?」
目の前に置かれているメニューを指さし、どれにするかを尋ねてくる。
「そうだな、この6点盛り・塩にしようかな」
「解りました。女将、6点盛り・塩と俺はいつもので」
注文を終えて江藤は大池に話しかけるが感心が無いのか会話はすぐに終わってしまう。折角二人で飲んでいるのに気まずい空気が流れだし、どうして誘われたのかが解らなくなってきた。
「大池、なんか俺に用事でもあったのか?」
その言葉に大池は江藤を真っ直ぐに見つめたまま、何かを考えているようで。
「そういえば……」
と話し始めたのは仕事の事で。江藤から引き継いだ得意先の事だ。
最後だからと変わらない、なんとも大池らしいと思いながら酒を勧めつつ話を聞いた。
呑ませ過ぎた事は否めない。
江藤は酒にめっぽう強い。そんな彼と同じペースで飲み続けた結果、ダウンしてしまったのだ。
まさかこんなかたちで大池をお持ち帰りすることになろうとは。
酔った大池を部屋まで運んでベッドの上に寝かせ、苦しくないようにネクタイとシャツのボタンを2つ開けてベルトを外す。
無防備に眠る大池は可愛いくて普段とのギャップにドキドキしてしまう。
後ろへ流して固めた髪を崩したらもっと可愛くなりそうだ。
弄ってみたくなって手を伸ばしたその時。
「えとーせんぱぁい、やめないでください……」
体を丸め布団を抱きかかえて眠る大池の寝言に一瞬理性が飛びそうになる。
会社を辞めるからとあいさつをしにいったとき、江藤に対して大池が言った言葉は感情の籠らぬ声で「お世話になりました」とだけ。
そっけない別れの言葉に大池は自分に対して興味がないんだと、改めて思わされた。だから別れは悔い。なのに、ここでそんな事を言わないでほしい。
寝言だけど大池がそんな風に自分を思ってくれていた事が嬉しく、触れようと腕を伸ばしかけてやめた。
相手は酔っ払い。
このまま一緒に居たら大池に対して何をしでかすか解らない。
江藤は寝室から出て居間の床の上へと横になった。
寝癖だらけの頭でぼっとベッドの上に正座になる大池に、会社で見せるクールさを微塵にも感じない。
「あの……、どうして俺は江藤先輩の寝室で寝ていたんでしょうか?」
寝起きで頭が回転していないようで、身なりは整っておらず外したボタンもそのままでちらちらと鎖骨が見える。
「酔いつぶれたからうちに連れてきたんだ」
普段とかけ離れた大池の姿があまりに可愛くて、つい、じろじろと見てしまいそうになって視線を外す。
「そうでしたか。御面倒をおかけいたしました」
深々とお辞儀する大池に、彼らしいなと思いながら「いえいえ」と江藤も真似をしてお辞儀を返した。
スマートフォンの時計を見て、まだ時間に余裕があるので家に帰りますという。
「お礼とお詫びには改めて喫茶店の方におうかがいします」
失礼しますとそういって立ち上がる大池を江藤は「ちょっとまって」と引き止める。
「なんでしょう?」
一瞬、眉をひそめた大池に、
「なぁ、飯食って行けよ」
と迷惑承知で誘ってみる。
その言葉に黙り込む大池に、やはりダメかと諦めかけた時。
「良いのですか?」
そうポツリと大池が言う。
「あぁ。簡単なもので良かったら」
食べることが好きなので自分で料理もするようになった。
この日ばかりは食い意地の張っていてよかったと自分を褒めてやりたいと思う。
朝食に偉く感動してくれた事を良い事に、
「7時30分までに店にくれば朝食を食わせてやるよ」
と誘ってみる。
「いいのですか?」
それに戸惑う大池だったが、良いからと来いと約束をとりつける。
もっと大池を知りたい。その想いが口から出て言葉となった。
傍に居たいと願った時は遠かったのに、離れた途端に近くになった。
二人で過ごす時間。話す事がなくとゆっくりと流れていくその時が心地よい。
時折、目が合うようになったのも嬉しい事の一つだ。
「江藤先輩、行ってきます」
「あぁ、いってらっしゃい」
いつも丁寧にお辞儀をして店を出ていく大池を見送りカウンターでため息をつく。
関係が進展するわけでもなく変わらない日々。それで満足していていいのかと心の奥の自分が問いかける。
だが告白をしたとしてそれが失敗してしまったらとそう思うと怖くて何も出来なくなってしまうのだ。
折角手に入れた大池との時間を江藤は失いたくなかった。