藤花

迷い込んだ蝶

 二度と来るなと自分から彼を拒んだ癖に、足は彼の家へと向けている。
 あの日、自分の手元に残った小袖と袴を届けるだけだと、そう心の中で自分に言い訳をして、だ。
 だが、いざとなると家の近くまで来ると足がすくんでしまい、そんな事を繰り返す事、数回。
 結局は弱い気持ちが押し負けて足先は自分の家へと向いてしまう。
 しかし、今日は家へと引き返すことは相成らず。
「帰さんよ」
 と、藤の手を掴む者がおり。
 その声を聴いた途端、抱えていた風呂敷がぽとりと地面に落ちた。
「……っ!」
「お主が来てくれるのを、ずっと待っていた」
 会いたかったと、泣くのを耐える様に顔をゆがませ自分を見る。
 あんな酷い真似をしたというのに、彼は自分が会いに来るのを待っていてくれたのだ。
 それが嬉しくて、そして彼にしてしまった仕打ちが申し訳なくて、涙があふれ出る。
「……俺も会いたかった」
 と彼の身を抱き寄せると、涙でぬれた頬にそっと手を這わせて優しく拭い取ってくれた。

◇…◆…◇

 朝から降り続ける雨が藤の気持ちを鬱陶しくさせる。
 和紙が湿って筆のノリが悪い。
「いい加減に止まねぇかね……」
 何度目かのため息をつきながら障子をあけて外を窺うが止む気配を全く感じない。
「こればっかはしょうがねぇか」
 今日はあきらめるしかないと障子を閉めようとしていた、その時。雨の中を歩く一人の男が目に入る。
 雨に濡れて冷えたか、はたまた道に迷ってなのか。
 真っ青な顔でウロウロとする姿に、藤は放っておけなくて声を掛けた。
「よう、そこの兄さん、道にでも迷ったのかい」
 そう声を掛けると男は振り返り、雨のせいで一通りが少なくなった所に藤に声を掛けられホッとしたのか、表情を綻ばせた。
「その通りなのだよ。此処いらに評判の菓子屋があると聞いて来てみたものの、それらしき店が見当たらくてな」
 そう照れ笑いする男に、藤は家に入りなと手招きをする。
「良いのか?」
「あぁ」
「所で兄さん、傘はどうしたんで?」
 その姿にはどことなく気品があり、武家の生まれに見える。故に余計傘も持たずに外を歩いていていた事に疑問を感じた。
「途中、身籠っているおなごがおってな。体を冷やしてはならんと思ってな」
 それで傘をあげてしまうなんて、なんとお人よしな男だろうか。
「菓子も買えず、傘をあげちまってびしょ濡れになってさ、挙句の果てには道に迷うたぁ……」
 ご愁傷様だと呆れた調子で言えば、
「だが、悪い事ばかりでもないぞ。こうしてお主が声を掛けてくれた」
 ありがたいよと笑う、この男の人となりを知りたくなってきた。
「俺は藤というのだが兄さんは?」
「私は黒田恒宣(くろだつねのり)と申す」
 恒宣は武家である黒田家の二男であるという。
「お武家様でしたか」
 こりゃ失礼しましたと頭を下げれば、恒宣はよしてくれと手を振るう。
「私に対して畏まる必要はないよ」
 恒宣は武家の生まれだからと威張るような真似はしないようだ。
 ここら一体は男も女も口が悪いのは多く、キツイ口調に聞こえる。
 故に自を押さえる必要が無いとわかり、遠慮なくそうさせてもらうことにする。
「一先ず俺ので悪りぃがこれ使ってくれ」
 と、自分の持つ着流しの中でいっとう上質な藤色の物を手渡してやれば恒宣が口元を綻ばした。
「なんでぇ」
 こんなものは着れないといいたいのだろうか。
 不機嫌そうに眉を顰める藤に、恒宣はその顔を見てあぁと呟き。
「違う、藤に藤色の着物は良く似合いそうだなと思ってな」
 そう思ったらついと、真っ直ぐに藤を見つめた。
「な、何を言ってるんでぇッ」
「ふふ、では遠慮なくお借りいたす」
 そう礼をして濡れた小袖と袴を脱いで藤色の着流しを身に着けた。

 恒宣は白く貧弱な体をし、丸眼鏡をしていて人のよさそうな顔をしていた。
「何だか折れてしまいそうだな」
 そう腰回りを撫でる様に触れれば、恒宣がビクッと体を揺らした。
「ふ、藤」
「おめぇ、剣術は習わなかったのかよ」
 武家の生まれならば習わされるのではと藤が疑問に思えば、
「子供の頃は病弱でな。剣術ではなく学問を学んでおった」
「そうかい。だからこんなになまっちょろいのか」
 後ろから腕を回して抱きしめる様な形となり、恒宣は体を硬くする。
「あぁ、わりぃ」
 つい馴れ馴れしく触ってしまった。警戒されたかなとうかがうように見れば、特に変わった様子は無かった。
「兄や弟には少し鍛えた方が良いと言われるのだが……、やはり軟弱に見えるか?」
「う~ん、あんたには悪ぃが」
「そうか」
 がっくりと肩を落とす恒宣に追い打ちをかける様に、
「まぁ、なんだ、あんたって身なりも良いからな。ゆすりには気をつけな」
 カモられるぜと藤は口角を上げた。
 恒宣はそれは困るなと眉を寄せ、
「その時は全力で逃げるしかないな」
 と言うが、どうみても足が早そうには見えない。捕まるのがオチだろうが頑張んなと背中を叩いた。

 結局、恒宣の小袖と袴は乾かず、藤の着流しを着て帰っていった。
 随分とおっとりとした男だった。
 共に居ても嫌じゃなかった。それ所か傍にいるだけで落ち着く程だ。
 だが、それは恒宣が友好的に自分と接してくれたからだろう。だが、アレを見てしまったらどうなるだろうか。
 その視線の先には一枚の絵が置かれており、描かれているのは妖艶な美女である。
 ただの美人画なら別に見られても構わないが、そこに描かれているのは衿を広げて豊満な胸を晒しだし、乳房を舌で絡め取る男の絵だった。