糸が紡ぐ、刺繍と彼

旅立ち

 噂のせいで次の婚姻を見つけられないでいたタズリー伯爵家の姉妹は同格の相手と婚姻を結んでハッピーエンドを迎えて、いや不幸の始まりを迎えましたとさ。
 ヴェルネルにとって苦でしかない存在。これからの人生、どうやって生きようがどうでもいい。
 もう二度と会うことはないだろうから。
 美味しい食事と軽い運動、日差しに当たるようになって少しずつ体力もついてきた。
 医者からも移動の許可が下りた。
 半年後に辺境伯として臣下にくだるセルジュが賜った領地に先に向かう。
 王都より五日ほど移動した場所、夏は暑く冬は寒い過酷な環境だが静かで落ち着くだろうからと。
 王宮での生活はとても贅沢で幸せな時間であった。だが、ヴェルネルがいつまでも居てよい場所ではない。そう思っていたから領地へいけることにホッとしていた。
 旅に出る前は色んな意味で大変だった。
 刺繍を終えて王妃殿下に贈ると、その出来に喜んでくれてお礼だといい仕立て屋を呼んで服や靴を贈ってくれた。
 その量が半端なかった。
 最後はセルジュに止めてもらって、なんとか5着でおさまった。
 そして旅に出る一日前には王族の方々との食事会へ招待された。気楽にと言われたが緊張して味がまったくわからなかった。
 まさか王殿下と言葉を交わすことになるなんて。
 食事を終えたあとも実感がなく、あれは夢でったのではとおもうくらいだ。
 部屋に戻ろうとしたが、話をしないかとセルジュに誘われてお茶をすることに。
「緊張していたな」
「はい。今でも心臓がドキドキしています。失礼があったらどうしようって」
「ふ、俺とはそうでもないのにな」
「それは、セルジュ様と私は友達ですから」
 そう口にして照れてしまった。
「挨拶もテーブルマナーもきちんとしていた。母親が教えてくれたのだったな」
「はい」
 朝食を一緒に食べた時に尋ねられたことがあった。タズリー伯爵家ではマナーなど教えてはいないだろうからと。
 侍女をしていた母親が教えてくれたのだと答えたのだ。
「母からは覚えておいて損はないとマナーを。後は本をたくさん読みなさいと言われました。刺繍は母親がやっていたので一緒にやりたくて覚えました」
「母親は良い腕をもっていたのだな。出逢ったころに着ていたシャツに刺繍がしてあったが、あれは素晴らしかった」
「はい。母はとても腕の良い刺繍職人だったんですよ。あのシャツ、とっても大きくて袖をおって着ていました。でも今は少し小さい……」
 母を思い出し目頭が熱くなる。
 いつも優しい、ヴェルネルを一番に思ってくれていた。
「なぁ、母親の名はなんというのだ?」
「ユリアナです」
「そうか。覚えておきたくてな。君の母であり、マナーの先生であり、刺繍の師匠の名を」
「あ、そうですよね! ふふ、母はすごいです」
 王子殿下に名を覚えてもらえるなんて、母に話したら驚くことだろう。
「ありがとうございますセルジュ様」
「ふ、明日には君はここから旅立つのだな。半年後に俺も向かうが、寂しいものだ」
 まさかそのように言ってもらえるなんて思わなかった。
「私も寂しいです。皆と一緒に食事をする楽しさを知りました。お話をするのが楽しかったです。庭園も見事で毎日見ても飽きません」
「俺の屋敷にもここには劣るが庭園がある。庭師には伝えておくから好きな花を植えるといい」
 ヴェルネルを不憫だと思って、優しくしてくれるのだ。
 じわじわとこみあげるのは、今まで母親にしか感じたことのない思いだ。
「なんか、心が温かいです」
「そうか」
 頭に手をポンとおいたと思うと、ぐりぐりと撫で始めた。
「わー、セルジュ様」
「お前は本当に可愛い。一番上の兄の子供のようだ」
「えっと、王太子殿下の王子殿下……あぁっ、私はそんなに子供じゃありませんよ」
 確か八歳のハズだ。
「ふ、あははは」
 可愛がってくれるのは嬉しいけれど、子ども扱いか。
 まぁ、それでもこうして仲良くしてくれるのだからヨシとすべきか。
「ヴェルネル、半年後に会おう。それまで元気に暮らすのだぞ」
「はい」
 セルジュに言われたことは守りたい。ヴェルネルがすべきことは次に会うまで元気でいることだ。

 出発の日。領地まではフレットが同行してくれることになっていて、なんとも心強い。
 荷物が沢山あるので馬車は二台となった。
「こんな贅沢な馬車を使っていいのですか?」
 どう見ても自分が使っていいような馬車ではない。
「気にするな。長旅なんし、はじめてだろう? 乗り心地の良い馬車でないと体が辛い」
 フレットが言うと、
「そういうことだ」
 とセルジュが言う。
 経験がないのでその言葉に従うことにする。
「体調が悪くなったらすぐにフレットにいうのだぞ」
「はい」
「お腹がすいたらおやつを用意してあるから食べるとよい。飴玉も入っているからな」
「はい」
「それから……」
「おまえさ、母親みたいになっているぞ」
「む、そうか?」
 確かに母親は子供を心配してあれこれと言ってくる。兄弟でもこんな感じなのだろうか。
 血のつながりが半分あっても虐げる兄弟もいるのだから。
「心配してくれてありがとうございます。それでは行ってまいります」
「あぁ。半年後にまた会おう」
「はい。また会いましょう」
 しばしの別れ。あた会えると解っているから笑顔を向けて。
 セルジュも笑みを浮かべている。本当に素敵でカッコいい人。寂しくなっても心の中にセルジュを思い浮かべればやっていけそうだ。
 一緒にいられる日々を楽しみに。新しい生活をはじめる第一歩を踏み出した。

※※※

 情報を得た。
 母親の名前はユリアナ。ロケットの中に彫られていたのは横向きの鳥と花。紋章だろうとアルフォンスが言っていた。
「情報は今のところは二つだけ。まずは彼が幼いころい住んでいた場所へ」
「はっ。タズリー伯爵家に行ってまいります」
 婚約破棄お詫びに新しい婚姻をとは言っておいたが、罰をあたえるのとは別にヴェルネルのことを聞くためであった。
 調べるには時間がかかるだろうが、必ず見つけよう。