Jalousie
準備の為に朝の六時半には出勤する。
作業場には既に蒼士の姿があり、クリーナーで作業台の拭き掃除をしていた。
「おはようございます、オーナー」
「おはよう」
作業場は二人の担当だ。店内と店外は別のスタッフが清掃をする。
それから下準備をし、生菓子を作り始める。
オープンは十時。それに間に合うように懸命に手を動かし続ける。
やっと一息つけるようになるのはお昼頃で、昼食を摂りながら蒼士と仕事の話を交えつつ身体を休める。
一時間の休憩の後は焼き菓子を作ったり、売上を見て追加の分のケーキを作る。
注文があればそちらに取り掛かることもある。
「オーナー、お客様です」
休憩に入った所に声を掛けられる。
誰だろうと店に向かうと、そこに居たのは久しい相手だった。
「長谷さんじゃないですか!」
「やぁ、龍之介」
長谷隆也(はせたかや)はシェフだ。
彼と知り合ったのは初めて入ったバーだった。同じ日本人ということもあり、その日に意気投合し一緒に飲んだ。
しかも同じアパートの住人であり、作る物は違えど食に関する仕事をしている事もあり、二人が親友になるのもすぐだった。
左右の頬にキスをする。向こうの挨拶であるビズだ。
「あ、流石にここですると目立つか」
「はは、抜けないですよね」
従業員がこちらをみて妙に照れた顔をしている。日本人から見たら驚く光景だろう。
「Je veux manger du gâteau(ケーキが食べたい)」
「D'accord(OK)」
顔を見合わせて笑う。
「オーナー、フランス語は駄目ですからね」
ヴァンドーズの一人が言う。
「はは、長谷さん、日本語で注文お願いします」
「ウィ」
そう、おどけて言うとウィンクをして見せる。
女の子たちが顔を真っ赤にしている。長谷は甘いマスクをしている。向こうに居た時もとてもモテていた。
「じゃぁ、ガトー・ショコラ・オランジュを」
オレンジ風味のガトーショコラだ。これを気に入ってくれていて買っていた。
「こちらにどうぞ」
休憩室に案内すると蒼士の姿はなく、気を遣わせてしまったなと思いつつ、皿を持って店へと戻りケーキを受け取った。
「連絡もしないで店にいきなりきてしまってすまないな」
忙しいだろうと言われ、丁度休憩時間だからと答えた。
「タイミングが良かったかな?」
「はい」
珈琲豆をミルで引きドリップする。良い香りがしてきた。
「龍之介、ご飯まだなんだろう?」
「これをいれたら食べます」
珈琲が入り長谷の前に置くと食事の用意をする。
今日は牛丼だ。弁当を用意する時間が無かったので冷凍保存しておいたものを持ってきた。
「美味しそうだね」
「長谷さんに見られると恥ずかしいです」
向こうは本物の料理人なのだ。龍之介が作る家庭料理とは違う。
「こういうのが良いんじゃないの。あぁ、お昼を食べて来るんじゃなかったな。でも俺には龍之介の作ったガトーがあるっ、頂きます」
「どうですか?」
「うん、美味い」
本当に美味しそうに食べる人だ。
フランスに居た時、この表情を見る度に嬉しくて幸せで、彼に惹かれていたんだと思う。だが、気持ちを伝える事はしなかった。
再び出会い、気持ちは疼くが、思い出の一つでしかない。
「レセプションに招待するから」
「はい、楽しみに待ってます」
「さて、ガトーも食べられたし、邪魔しちゃ悪いから帰るな」
「また来てくださいね」
「あぁ。今度は恋人と一緒に来るよ」
きっと長谷の事だ。すぐに恋人が出来るだろう。その時は特別な生菓子を食べさせてやろう。
店の外まで見送った後、従業員たちに囲まれ、根掘り葉掘り聞かれた。 特に女子達は気になっているようすだ。
「店長のお友達って、カッコイイ人多いですよね。関町さんとか」
そこで関町の名が出てドキッとした。
確かに見た目は良い。普通に女性にモテるだろうに、なぜ、自分なんだろう。
「アレは中身が残念だぞ」
「えぇ、そうなんですか!」
きゃっきゃと盛り上がっている所に、ガラス越しに客が店の中へと入ろうと扉の前に立つところが見えた。
「さて、と。お客様だ」
よろしくねと声を掛け奥へと引っ込む。
午後の仕事のはじまり、龍之介は頭の中を仕事モードへと切り替えた。
※※※
仕事を終え、買い物を済ませて関町のマンションへと向かう。
チャイムを鳴らすと直ぐに関町が玄関のドアを開いた。
「おかえりなさい」
まるで飼い主を待つ犬だなと彼を見れば、何処か不機嫌な表情だ。
朝は調子が良さそうだったのに、もしや寝ていなかったのか。
額に触れようと手を伸ばしかけた所を関町にその手を掴まれてしまう。
触られる事を嫌がった事は一度もない。寧ろ、触ってほしいと寄せてくるのに。
「なんだ」
「あの男は誰ですか?」
何のことだと目を瞬かせる。
そのまま腕を引かれ、ソファーに座らされた。
テーブルの上に置かれていたスマートフォンを操作し、こちらへと画面を向けた。
そこに写っていたのは長谷とのビズ。店の誰かがこれを関町へと送ったようだ。
「誰だよ、送ったの」
嫉妬丸出しの男に、ややこしい事になったぞと額に手を当てる。
「これ、なんなんです」
画像をピンチインし、触れ合う場所がアップになる。
「挨拶だ」
「挨拶ですって!?」
日本では馴染みのない挨拶だ。黙らせる意味も込めて関町に実行する。
「りゅう……」
驚いて目をまん丸くしている関町に、龍之介はふ、と口元を緩めた。
「フランスでは親しい者と挨拶をする時にこうするんだ」
くだらない嫉妬をするなと、彼の頭を軽く叩いて立ち上がる。
「長谷さんはお世話になった人だ。お前が思っているような人じゃない」
「龍之介さんっ」
手が伸び、後頭部を押さえつけられた。
逃げられない。そう思った時には唇を奪われていた。
「んっ」
舌が入り込み歯列を撫で絡みつく。
「せき、まち」
手を胸の間に差し入れて押すがびくともしない。
するりと手が首を撫で、背中へと降りていく。
「ん、ふ、だめ、だ」
これ以上は。
腰を支えるように腕を回し、しつこく唇を吸われ、そして離れた。
「はぁ」
意識がとろりとしかけたが、我に返り彼の肩を強く押した。
「関町」
「ごめんなさい、龍之介さん。それでも、俺は、嫌なんです」
泣きそうな目を向け、まるで濡れた唇を拭うように手の甲を押し当てられた。
まただ。胸が締め付けられるように苦しい。
「飯、作るから。お前は座っとけ」
その手から逃れるように一歩下がり、そしてキッチンへと向かう。
「りゅ、……はい」
そっと振り向けば大人しくソファーに座る関町の姿がある。
つまらない嫉妬をして面倒な奴、そう思っていた筈なのに。
「くそ、俺の心の中にずかずかと入り込みやがって」
ただの挨拶。だが、惚れた相手だから気になるし、嫉妬もしてしまうといったところか。
「だいたい、あんなキス、この頃はお前としかしてねぇよ」
気がつけば指が唇に触れていた。
手の甲を押し当てるなんて、そんなしおらしい態度は関町らしくない。
「て、らしくなくていいんだよな」
ぐいぐいとこられても困ってしまう。それなのに、物足りなさを感じてしまい、そんな自分を否定するように頭を振るった。
鍋焼きうどんが出来上がりお盆に乗せて関町の元へと向かう。
「あ……」
「それを食ったら薬を飲んで寝ろよ」
帰り支度をする龍之介に、何か言いたげな顔をするが、
「はい。ありがとうございます」
とだけ言い、玄関まで見送りに来る。
「じゃぁ、な」
「はい。おやすみなさい」
呆気なくドアは開き、そしてぱたりと音を立て閉じた。
引き止められなくてよかった。いつもならそう安堵していた所なのに。
今日に限ってはそれが心に引っ掛かった。