寂しがりやの君

総一①

 今度こそよい結果を得ることができる、自分の中で手ごたえを感じた。
 完成まであと少し。
 だが大切な絵は無残に切り刻まれて作品としての完成させることはできなかった。
 その光景はどこか遠くのもので、喧騒すら聞こえない。
 誰かが強く抱きしめた。ゆっくりとそちらに視線を向けると、同じクラスで友達の尾沢冬弥《おざわとうや》が険しい表情をして一点をみつめていた。
 そこにあるのは色とりどりの紙吹雪のようなもので、誰かのお祝いでもしたのかと首を傾げる。
「総一《そういち》」
 名を呼ばれた。
 静かだった美術室がざわついている。
 女子部員の何人かが泣いている。大丈夫だと背中をさするのは部長の三芳《みよし》だ。
 そして数名の部員が心配そうに橋沼をみつめていた。
「皆、心配をかけてしまってすまんな」
「そんな、総一は被害者だろう!」
 悪いのは絵を切り刻んだ人物。だが、心配をかけてしまったのは自分だ。
「先生と三芳に話がある。皆は、コンテストが近い時期に悪いのだが部活は休みに」
 この一件はここにいる人たち以外に話さないでほしい、そう先生と部員に頼んだ。
 おおごとになってコンテストを辞退することになるのは避けたかった。
 後日、先生の元に犯人が名乗り出た。
 三年の男子部員で、コンテストに間に合わないという焦りと、橋沼の絵をみて嫉妬をしたそうだ。
 冷静になり、犯してしまったことに反省し先生に申し出たという。
 取り返しのつかないことをしてしまったと橋沼に直接謝りに来た。
 恨んだところで絵は戻らない。男子部員には退部というカタチでけりをつけた。
 気持ちを入れ替えてまた一から始めよう……なんて気持ちにはなれなかった。
 作品を完成させられなかったことがわだかまりとなっていた。
 このまま美術部にいるのも辛いから退部しようとしたが、それを引き止めたのは先生と部員達だ。
 昼休みに自由に使っていいよと先生が鍵を手渡した。
 辛いからやめようとしていたのに、どういう神経をしているのかと先生を恨む。
 べつに受け取ったからと使わなければいいだけ。何日かしたら返せばいい。そう思っていたのに何故か足は美術室へと向いていた。
 ドアを開くのが怖い。床に散らばった切り刻まれた作品を思い出してしまうから。
 引手を掴もうとしたが手が震えてもう片方の手で押さえる。
 足は向いても心は無理だ。
 中に入るのは諦め、外の空気を吸おうと廊下からベランダに出た。
 しばらくぼーと空を眺めていたら、猫の鳴き声が聞こえて下を向いた。
 俺がそういう気持ちになれるようにと、先生は鍵をかしてくれたのかもしれない。
 心の中で感謝をし、俺は昼になるとここでご飯を食べるようになった。
 何か描きたくなるかもしれない。そう思いながらスケッチブックを開くが、結局は黒く塗りつぶされた闇が広がるだけだ。
 何日も、何日も、そのうち手は止まり、ぼーっとする時間が増えた。
 そんなときだ。猫の鳴き声を聞いたのは。
 女子から噂で聞いたことがあった。もしかしたらその猫かもしれない。
 急いで下へと向かい外へと出ると、橋沼をみた瞬間にビクッと身体を動かし立ち止まる。
 少しでも動いたら逃げてしまいそうだなと、しゃがみ込んで猫がくるのを待つことにした。
 警戒をしている。それはそうだろう。大柄で重圧感があるものがきたのだから。怖がられないように笑顔を浮かべるようにはしているが猫には通じないか。
 しばらくにらみ合いが続き、そして猫はすっといなくなる。
 仲良くなるにはまず餌かと、煮干しを祖母から分けてもらって持ってこよう。猫のいなくなったほうをみながら「またな」と呟いた。

 煮干しのお陰で少しずつだが橋沼の側にいてくれるようになった。
 たまに餌を食べながらぶにゃと鳴く。それが可愛いからブニャと勝手に名付けた。
 日にちが立つごとに橋沼が行くと餌がなくとも寄ってくるようにもなった。
 今日も弁当を食べてブニャの元へ行こうと思っていたのだが、どうやら先客がいるようだ。
 噂を聞いてたまに探しに来る人もいるが、匂いがキツイと絶対に出てこないし、餌があっても慣れない相手だと警戒している。
 どうやらあきらめたようですぐに居なくなったが、次の日にはそこで食事をし始めた。
 そんなに猫に会いたいのか、そう思ってみていたのだが、次の日、また次の日とあの場所に来るので、もしかしたら一人になりたくて来ているのかもしれない。
 そこにいるのは男子だということしかわからない。
 髪を茶色に染めていて、中心が黒くなり始めていた。
 とくに気にするものでもないのに、弁当と共に持ち歩いているスケッチブックと鉛筆を手に取る。
 胸の中にあるもやもやを吐き出すように、黒く塗りつぶされたページが何枚かある。
 ずっとこんな調子だったが、仕上がった絵は同じ黒でも今までとは違う。彼の後頭部の絵だった。
「なんだこれ」
 みた瞬間、おかしくてクツクツと笑いだす。何故、こんなものを描いたのだろう。
「他の奴がみたらなんていうかな」
 同じ反応をするか、それとも良かったねといってくれるだろうか。
「また、描くことができた」
 涙が溢れる。あのときですら泣かなかったのに。絵を描けたことが嬉しくてたまらなかった。
 きっと今なら美術室へと入れるのではないだろうか。
 ベランダから美術室の前へと移動する。胸が激しく波打ち、一度大きく深呼吸をする。
「よし」
 頬を叩いて気合を入れ、鍵を差し込みドアを開いた。
 目の前に広がるのはあの日の光景ではなかった。
 嗅ぎなれた絵の具の匂い。棚には絵が置いてある。
「なんだ、全然平気だ」
 怖くて足が震えるのではないかと思っていたけれどそんなことはない。
 久しぶりで喜びのほうが大きかった。

 次の日も、次の日も、後頭部ばかりを描いていたが、それ以外もみてみたいと思うようになった。
 今日も彼は来ているのだろうか。
 何か話すきっかけはないだろうか。すると草むらの中から猫の鳴き声が聞こえた。きっとブニャだ。
 毎日来る相手に警戒心が薄れてきたからだろうか。でも、これは話しかけるチャンスだ。
 ブニャの煮干しを手にし、ベランダへと出て彼に声をかけた。

 あれから、昼休みになると、美術室で田中と一緒に過ごすようになっていた。
 多めにつくってもらったオカズを田中にお裾分けをし、美味しいそうに食べる姿をみて満足している。
 その後にスケッチブックに絵を描きながら田中と話をする。そのとき間は楽しくて待ち遠しいものだった。
 弁当を手に美術室へと向かおうと席を立つと冬弥に引きとめられた。
「お前が楽しそうに美術室へ行く姿をみれて嬉しいよ」
 美術部員以外であのことを知っているのは冬弥だけだ。心配をかけたから美術室へ入れたこと、そして田中のことを話してある。
「あぁ。田中が待っているから行くな」
「待て。その田中のことなんだが、もしかして彰正《あきまさ》と同じクラスの奴か」
 彰正は冬弥の弟で、一つ学年が下で田中とは同級生だ。
「どうかな。クラスまでは聞いていないから」
「こいつだよな、田中って」
 スマートフォンの画面につまらなそうな表情を浮かべた田中の画像が表示されている。
「あぁ、彼だ」
「そうか。総一が楽しそうにしているのは嬉しいけれど、コイツはダメだ」
 田中のことを知らなかったのに、何を言い出すのだろう。
「どういうことだ」
 理由を尋ねれば、
「実は二年の女子から聞いたんだけど、田中と彰正の友達が喧嘩をしたらしいんだよ」
 しかも原因を作ったのは田中のほうなのに、喧嘩をした相手が全て悪いことにして停学を免れたそうだ。
「そんなことがあったのか」
 本当のことがバレて教室に居づらくなり、人気のないあの場所にきたということか。
「だからさ、総一に何かあったらと思うと」
 傷ついているところに、また何かあったらと、それが心配なのだろう。
「ありがとう。だけど俺は田中に会いに行くよ」
 その話が真実だとしても、橋沼が知っている田中は悪い奴には思えない。
「総一!」
「この件はこれでおわりな」
 冬弥には悪いが自分の直感を信じたい。だから今日も田中に会いに行く。
 腕を掴もうと手を伸ばしたが宙で止まる。今はなにをいっても無駄だと感じたのだろう。
「冬弥、ありがとうな。行ってきます」
 ポンと冬弥の肩を叩き、荷物を持って教室を後にした。