二人で過ごす昼休み
今度はよい結果を得ることができる、自分の中でそんな手ごたえがあった。
完成まであと少しというところで、キャンパスは無残に切り刻まれて、俺は呆然とそれを眺めていた。
その絵を布で覆い隠し、抱きしめてくれたのは先生や部員ではなく、連絡を受けて駆け付けてくれた親友の尾沢冬弥(おざわとうや)だった。
大丈夫だといいながら背中を擦り続け、ぐちょぐちょに涙でぬれる冬弥の顔、そして心配そうに俺を見る部員たち、一部の女子は顔を涙に濡らしていて、心配をかけてしまったと思うくらいには落ち着けた。
「皆、心配かけてゴメン。冬弥も」
ポケットからハンカチを取り出して、濡れた冬弥の顔を乱暴に拭いた。
文句を言われたが、笑ってやり過ごすと、周りの張り詰めた空気がすこし和らいだ。
この一件はおおごとにしないでほしいと先生と部員に頼んだ。
コンテストに参加するのは俺だけではない。これ以上、迷惑をかけたくはなかったし、騒ぎ立てをしておおごとになって、もしもコンテストに参加できなくなったら、それを目指していた部員に申し訳がたたない。
絵を切り刻んだのは同じ三年の男子部員で、コンテストに間に合わないという焦りと、俺の絵を見て嫉妬をしたそうだ。
冷静になり、ことの重大さに気づき、申し訳なかったと謝りにきたのだ。
きちんと話してくれたし、反省もしている。恨んだところで絵が元に戻るわけでもない。だから男子部員には退部というかたちでけりをつけた。
だが、俺の創作意欲が戻ることは無かった。
このまま美術部にいるのも辛いから、退部しようと思ったが、それを引き止めたのは先生と部員達だ。
いつか描きたくなるその日まで、そう言って先生は昼休みに美術室を自由にしてよいと鍵をかしてくれた。
はっきりといえば、嬉しくなかった。
辛いからやめようとしていたのに、ここの鍵を渡すなんてと先生を恨みそうになった。
それなら鍵を使わなければいいだけなのだが、何故か足は美術室へと向いていた。
絵は描けなくとも、ここは好きだ。そう思えたのは、案外とすぐだった。
俺がそういう気持ちになれるようにと、先生は鍵をかしてくれたのかもしれない。
心の中で感謝をし、俺は昼になるとここでご飯を食べるようになった。
何か描きたくなるかもしれない。そう思いながらスケッチブックを開くが、結局は黒く塗りつぶされた闇が広がるだけだ。
何日も、何日も、そのうち手は止まり、ぼーっとする時間が増えた。
そんな時だ。猫の鳴き声を聞いたのは。
女子から噂で聞いたことがあった。学校で猫を見たと。
ベランダから下を覗き込むと猫がウロウロと歩いている。
本当にいた。急いで下へと向かい外へと出ると、俺を見た瞬間にビクッと身体を動かし立ち止まる。
少しでも動いたら逃げてしまいそうだなと、しゃがみ込んで猫がくるのを待つ。
警戒している。そりゃそうだよな。俺は大柄で重圧感がある。怖がられないように笑顔を浮かべるようにはしているが、猫には通じないだろう。
暫くすると猫は俺に背を向けて行ってしまった。
今度は餌を持ってこようと再び美術室へと戻った。
ぶにゃと鳴くからブニャ。そう勝手になずけて煮干しを与え続けた。
すると匂いを覚えてくれたようで、餌が無くても寄ってくるようになった。
やっと懐いてくれたと沢山撫でて美術室へと行く。
ブニャがそろそろ鳴く頃かと下を覗き込めば、誰かがそこにいる。
誰だろう。
俺のようにブニャの噂を聞いて見に来たのだろうか。
知らぬにおいに警戒したか、ブニャも出てこない。
次の日、更に次の日もその姿はあった。
そんなに猫に会いたいのか、それともそこで一人で過ごしているのか。なんだか気になる。
なんとなく手にしていたスケッチブックと鉛筆。
黒く塗り潰すか、何も描かないか、ずっとそんなだったのに。
手が自然と動き出す。
出来上がった絵は後頭部の絵だった。
「なんだこれ」
見た瞬間、なんだかおかしくなってきて、一人でゲラゲラと笑いだす。
なんでこんなものを描いたんだろう。
「あははは、他の奴が見たらなんていうかな」
俺と同じ反応をするだろうか。それとも、また描けて良かったねと言ってくれるだろうか。
「……また、描くことができた」
描きたいって気持ちと描けた喜びが涙となって溢れた。
次の日も、次の日も、後頭部ばかりを描いていたが、そろそろ、それ以外も見てみたいと思うようになった。
今日も彼は来ているのだろうか。
何か話すきっかけはないか、そう思っていた所にブニャの鳴き声が聞こえた。
今まで出てこなかったのに珍しい。
そう思って下を覗き込むと、何かを手に持っている。
もしかして食べ物だろうか。その匂いにつられて出てきたのかもしれない。
これはチャンスだ。
ブニャの煮干しを手にし、ベランダへと出て彼に声を掛ける。
「おい、そいつにやれ」
と。
彼が上を向いた瞬間、運悪く顔面に煮干しの入った袋が落ちた。
「おー、顔面キャッチ」
「なにしやがる」
怒っている。当たり前だわな。
地味に痛いだろうし、なによりも煮干し臭い。
「ブニャのお昼。食わせてやって」
というと、彼はしゃがみ込んで煮干しを与え始めた。
きっかけもできたことだし、傍に行ってもいいよな。
「すげぇ食いっぷり」
その姿を眺めながら、口元を綻ばす彼の横にそっと立ち、
「お水」
と水を差し出した。
傍にいたことに驚いた彼が、目を見開き俺を見る。
「アンタ……」
「アンタじゃない。俺は三年の橋沼総一(はしぬまそういち)だ。君は?」
「俺は二年の田中秀次(たなかしゅうじ)」
近くで見た彼は、イケメンの部類に入るだろう。背は高く良い体格をしていた。
「意外と良い身体つきをしているな」
「俺よりも橋沼さんの方がすげぇじゃん」
「まぁな」
そう、俺は田中よりも更に背が高くて体格も良い。
親父も、祖父も体格がよい方だから、それもあるのかもしれない。
それにしても、何故、一人でいるのだろう。
「飯、ここで食べていたのか」
そう、食べかけのパンの袋を指差す。
「あぁ。教室、ウルセェし」
教室の喧騒から逃れてきたのか。だからかと納得した。
「確かに。なぁ、一緒に食わないか?」
静かな美術室なら大丈夫かなと、誘ってみるが、
「あ?」
嫌そうな顔をされてしまった。
さすがに、強引過ぎたか? だけど名前まで知ることができたんだ。もう少しだけという気持ちが勝る。
「行くぞ」
と腕を掴み、強引に引っ張った。
「離せよっ」
払い除けられそうになり、さらに力を込めた。すると、抵抗するのをあきらめて力を抜くのを感じた。
「行くから離せ」
「よし」
美術室まで連れて行くと、中へと入るのを躊躇う。
「え、入っていいのかよ」
部員でもなんでもないのに良いのかと、その表情が物語る。
「いいよ」
とポケットから鍵を取り出す。本当はそんな特権はないけどな。
「アンタ、そのガタイで美術部かよ」
やっぱり、そう思うよな。運動部、しかも柔道部員だと間違われることが多い。
「それ、よく言われる。持ち腐れって」
「は、そりゃ言われるだろ。それだけ良いガタイをしてたら」
「格闘技は好きだぞ。でも見る専門」
と机の上に置かれているプロレス雑誌を指差す。
従兄がレスラーをしていて、雑誌の表紙を飾っていた。
「利刀(としかた)」
知っていたか。レスラーとしては小柄な方だが、空中に高く飛び華麗に技を決める。
「お、好きか?」
「あぁ。この前の試合、凄かったな」
相当好きなんだな。俺の従兄が利刀のメディカルトレーナーをしている。
実は俺も顔見知りなんだけど、それを話したら会わせろと言いそうだな。今はまだ秘密にしておこう。
暫くはプロレスの話をしていたが、田中の視線が机の上のスケッチブックに向けられる。
「なぁ、どんな絵を描くんだ?」
「見るか」
それを手に取ると田中に渡した。
「へー、すげぇ……、え、これって」
花瓶と花、林檎、彫像、空、鳥、猫、黒く塗りつぶされたもの、描きかけの何か、そして後頭部が続いている。
まぁ、そういう反応になるわな。
「あぁ、お前の後頭部」
というと、驚いた顔をする。
「俺のことを知ってたのかよ」
「あぁ。この頃、あの場所にきているよな」
そう口にすると、いきなりキレてスケッチブックを机の上に叩きつけた。
「ざけんなっ、ボッチだと思って同情したのかよ」
もしかして一人きりでご飯を食べていたのは友達がいないからなのか。全然、そんなことを思っていなかったので、
「違う」
と返すが、怒りは収まらないようだ。
「じゃぁ、なんだって言うんだよ」
「見てみたいと思ったんだ」
ただそれだけだ。素直にそう答え、勝手に描いてごめんなと手を合わせる。
「実は、スランプ中で、ずっと描けなくて。先生が昼休みにここを使っていいよって鍵をかしてくれて。描きたいって気持ちになるまでここでぼーっとしてた」
ブニャがきたら餌をやろうと外を覗いたら俺が居て、暫く、眺めていたと素直に言う。
「それから何度か見かけるようになって。どんな子なんだろうって興味が出てきてさ、君を見ていたら描きたくなって、で、この絵の出来上がり」
と後頭部の絵が描かれたページを開いてみせた。
「何か話す切っ掛けがないかと思っていた所に、ブニャが出てきて。あぁ、チャンスだなって」
これを逃したら、また新たに話しかける術を考えなければならなかった。ぶにゃ様様だ。
「は、俺なんかと話したいなんて思うなんて、物好きだな」
どうやら嬉しいようだな。口元が緩みかけている。それを隠したいのか、必死で耐えていた。
こちらもつられて口元が緩みかけたところに、田中の表情が強張る。また警戒されたか。ほんのわずかだが懐きかけたところだったのに。
「戻るわ」
「そうか」
迷惑だったか? そうだとしたら悲しい。
それが顔に出ていたか、田中が困ったというような表情を浮かべていた。
「田中、俺、昼は美術室にいるから」
「……まぁ、ここは静かだし、来てやってもいいよ?」
よかった。
一人でも平気だと思っていたけれど、話し相手がいる方が楽しい。
それに、どうしてかな、田中のことを放っておけないと思ってしまったからだ。
教室に帰るのを見送り、俺も美術室を出る。またあした、田中と昼休みを過ごすのが楽しみだ。