藤花

囚われたのは蜘蛛の方

 出会ってからまだ日が浅いと言うのに藤は恒宣に心を奪われていた。
 しかし恒宣は立派な武家の生まれであり、何時しか彼に見合った人と結ばれる事だろう。
 これ以上、深みにはまってしまわぬうちに離れなければと、そうでなければ抜け出せずに落ちてしまうから。
 そう思っていたのに、まるで蜘蛛の糸に絡め捕られた蝶の様に、心を恒宣に絡め取られてしまったのだ。

◇…◆…◇

 手を握りしめたまま暫く互いを見つめていたが、ふっと恒宣が恨めしそうな表情を作る。
「お主に、気持ちを無視された挙句に、二度と来るなと言われて動揺したぞ」
 そう言われて、藤はすまねぇと素直に頭を下げた。
「酷い事を言われて傷ついた。忘れようと何度も思ったのに、ずっとお主の事ばかり考えてしまうんだ」
 もう一度、本当の気持ちを聞きたいとそう思ったが、二度と来るなと言われているのに会いに行って冷たくされたら立ち直れなくなるからと、自分からは会いに行けなかったのだと言う。
「もしも、もしもだ。藤の心の中に少しでも私を想う気持ちがあるのなら、きっと会いに来てくれると、そう信じながら待つことにしたんだ」
 待ったかいがあったと笑顔を向けられて、藤は胸が詰まる。
「なぁ、藤。何故、あのような真似をしたのだ?」
 本心を聞かせて欲しいと言われて、藤は気持ちの全てをはき出す。
「はじめは絵師として描くために。だが、途中で黒田さんに欲情した」
「え、よ、欲情って」
「俺ぁ、仕事の時はどんな状況でも欲情なんかしねぇ。だがな、おめぇは別なんだよ」
 藤は一呼吸すると真っ直ぐに恒宣を見つめ、
「俺は黒田さんの事を好いている」
 と告げた。
「そうか。なら、良い」
 呆気なくそう言い放つ恒宣に、藤の方が焦ってしまう。
「な、良いって、あんた、何を言ってっ」
「お主が私の事を好いてくれていることがすごく嬉しいのだ。だから私もお主の事をそういう意味で好きなのだろうな」
 ふふっと笑うと、恒宣が藤の手をとり自分の頬へと当てる。その行為に目を開き、藤はたじたじとしてしまう。
「愛おしいよ、お主が」
 そういうと、そのまま手の甲に口づけを落とした。
「な、なっ」
 藤はぶわっと頬を赤く染めてあたふたとし、そんな姿に微笑む恒宣だ。
「おや、意外と可愛い反応をするのだな」
 そういうと恒宣は顔を覗き込んで藤の頭を撫でた。
「く、黒田さんっ!!」
「なんだ、別に恒宣と呼び捨てで構わないぞ?」
 何時だったか名で呼んだよなと言われ、あの時は咄嗟にそう呼んでしまっただけだと言い返す。
「でも私は藤に名で呼んでほしい。黒田では他人行儀に聞こえる」
 とそう言われて躊躇いつつも解ったと了承した。
「つね、のり」
「ふふ、なんだ?」
 やたら嬉しそうな顔をするものだから、藤はたまらなくなって恒宣の唇へと口づけた。
「ん、ふじ……」
 首に腕を絡めて舌を絡めあう。
「はぁ、もっと欲しいよアンタが」
「うむ、そうだな……、ひとまず家に来ないか? 此処では人の目がある事だし」
 恥ずかしそうに顔を伏せる恒宣に、そうだったと頷く。
「じゃぁ、寄らせてもらうわ」
 では行こうと恒宣が藤の手を握りしめてその手をひく。
 そのまま二人は黒田の屋敷へと向かって歩き出した。

 流石、武家らしく立派な門構えと屋敷である。
 恐る恐るその門を潜り屋敷の出入り口に立てば、使用人が直ぐに迎えてくれる。
「恒宣さま、芳親様の所にお通しせよとの事です」
「相わかった。藤、こちらだ」
 着いてまいられよと先に歩く恒宣の後をついて行けば、とある一室の前で止まり。
「兄上、連れてまいりました」
 と中へ声を掛ける。
「中へ入られよ」
 失礼しますと恒宣が襖を開けば、そこに座っていたのは左腕が無く左目に眼帯をした男で。
 黒田の当主であり、自分の兄だと恒宣が囁く。
「ようこそ、藤先生。俺は黒田芳親(くろだよしちか)だ」
「こりゃ……、俺は、いや私は……」
 礼儀など持ち合わせていない藤は、困ったなと頭をかく。
「先生、普段通りに話してくれて構わないよ。堅苦しいのは苦手なんでね」
 と正座していた足を崩して胡坐をかきはじめる。
「藤、兄上がそうおっしゃっている」
 気にせず座れと自分の隣をぽんと叩く。
「あ、あぁ。じゃぁ失礼するぜ」
 恒宣の隣に胡坐をかいて座った所で、
「恒宣、茶をもってまいれ」
 と恒宣を部屋から出て行かせた。
「さて、お主には言っておきたい事があってな」
 そう言うと芳親の目がすっと細く鋭くなり纏う雰囲気が一気に変わり、藤は心に慄然とするものを感じる。
「ひと月前、恒宣が泣きながら帰ってきたことがあるのだが……」
 恒宣に欲情し、無理やりまぐわう事をしてしまった。それがばれてしまったのかと思い、藤は一気に血の気を失う。
「アイツはな、何があったか聞いても口を割ることはしなかった」
「黒田、さま……」
「だけど今日のアイツの顔を見て安心した。だから何があったかは聞かねぇ。だがな、二度とアイツを泣かせるような真似はするんじゃねぇ」
 解ったなと念をおされ。
 藤はぐっと崩れそうになる気持ちを押さえ、真っ直ぐと芳親の目を見てわかりましたと返事する。
「なら良い」
 直ぐに何事もなかったかのように気さくに話しかけてくる芳親。
 兄として、弟を想っての言葉。直に伝わってきて心の蔵がきりきりと痛んだ。
 それを胸に深く刻み、二度と辛い想いをさせる事はしないと心に誓った。

 茶と菓子を盆にのせ恒宣が部屋に戻り藤の隣へと座る。
「それにしても初心な恒宣が、まさか藤先生と恋仲になろうとはなぁ……。あ、そうだ、藤先生、俺に春画をくれねぇかな」
 藤の春画だと自慢したいと言われて、どんなのが好みかを聞く。
「なっ! 藤、要らぬぞ!!」
「なんでよ、藤の春画はなかなか手に入らぬ人気ぶりなのだぞ?」
「子供たちに見られたらどうするのだ」
 言い合いをする二人の姿は、藤にはただの仲の良い兄弟にしか見えず。
 じっと二人を見ていたら、どうしたのかと聞かれる。
「あ、いや、羨ましいなと思ってな」
 自分には親代わりとなってくれた師匠は居るが血のつながりのある家族はいない。
 先ほど、芳親が見せた目が余計にそう思わせた。
「俺には血のつながった家族はいねぇから」
「そうだったのか」
 絵師の時は藤と名乗っているが、藤春(ふじはる)という名を師匠につけてもらったという事を話す。
 藤が捨てられていたのは桜が美しく咲く頃だった。産着の裾に藤色の風呂敷が添えてあり、藤と春で藤春にしたのだと師匠は言っていた。
「でもな、俺には名をくれた師匠がいる。だから寂しくなんてねぇよ」
 と笑えば、そうかと恒宣が頭を撫でてくる。
 その手付きはまるで子供をあやすようで、でも悪い気がしない。
「お主の名、藤春というのか。良い名をつけてもらったな」
 今まで自分の事を話したことは無く、それも良い名だと言って貰えて藤は心から嬉しく思う。
(ありがとうよ、恒宣)
 恒宣が微笑みながらこちらを見ていて、視線が合うと自然と藤の口元にも笑みが浮かんだ。