託された刀
伊藤平八郎(いとうへいはちろう)の元には綺麗な細工の施された鞘に収まる一振りの刀がある。それは父である輝重(てるしげ)が亡くなる直前に平八郎に託したものだった。
銘は「八重桜」。
それは妖刀の中でも美しいと評判な「菊桜」「染井吉野」そして「八重桜」の三姉妹のうちの一振りである。
伊藤家に代々受け継がれてきたものだが、それを何故自分に託したのかが理解できない。
剣の腕などからきしな平八郎にはただの宝の持ち腐れだし自分が受け継ぐ理由がない。
輝重の後を継ぎ伊藤家の当主となった兄の輝定(てるさだ)に刀を託すのならば納得がいく。伊藤家で剣も心も一番強いのは輝定であるから。
故に一度、刀を兄へと譲ろうとした平八郎だったが、
「それの持ち主は"八"の名を継ぐお主だけ。それ以外の者が持つ資格はないのだよ」
と輝定に言われ受け取ってもらえなかった。
「八を継ぐとはなんなのです? 何故、俺なんですか兄上」
「すまぬ。父上からは何も聞いておらぬのだ」
ただ、理由はともあれ必ずこれを常に持ち歩きなさいと兄に言われ。
言いつけを守るために腰に差してはいるけれど、きっとこれを抜く日はこないだろう。
平八郎は剣術より勉学を好み、毎週決まった日に自分の部屋のある離れを使い童たちに物書きを教えている。
輝定がこれからは小さな頃から武士も平民も関係なく物書きを覚えた方が良いとはじめたことの一つだ。
武家の娘や平八郎のように勉学を好む庶子で受け持ちを決めて童たちに教えることになったのだ。
平八郎はこの時間がとても好きだ。
童たちは皆、素直でいい子達ばかりだ。一生懸命、物書きを覚えようとしてくれる。
平八郎の書いた見本を元に筆を手にし、何度も繰り返し書く。
ここで一番大きな体の少年である文太は大きくてくっきりとした文字を書く。
その反面、体の一番小さいおフネは小さくてかわいらしい文字を書く。
それぞれの個性があって文字を見ているのも楽しいものだ。
文太とおフネは上手に書けている。喜助はどうだろうか。
いつも元気に駆けずり回っている子だが、まだ平仮名だが文字が書けるようになり学ぶことが楽しいと笑顔でそう言ってくれた。
今も真剣に自分の名前を漢字で書けるように練習中だ。
「喜助、惜しいな。『喜』という文字の横棒が一本足りない」
「え? あ、本当だ。この字、難しいよ先生。先生見たく綺麗にかけないし」
「確かに画数が多い文字だけに書くのは難しいかもしれないな。だが、書くことが出来たら皆に自慢できるぞ?
それに練習をすればもっと上手くかけるようになる」
と、そう笑って頭を撫でれば、俄然やる気が出てきたようでもう一度と書きはじめる。
喜助から離れて自分の机へと戻ろうとしていた時だ。
カァーと鴉の鳴き声の後に羽ばたく音が聞こえ、そちらへと気をとられる。
普段から木に鳥はとまっているし、鴉だって別に珍しくはない。それなのに不気味で嫌な感じがする。
寒気を感じて腕を摩る。しかも怠い気がする。あとで診療所に行くとしよう。そうしたらこの気分の悪いのが治るかもしれない。
物書きを教える時間は一辰刻(いっしんこく)程。今日はここまでと告げると童たちが元気よく帰っていく。
それを見送った後、平八郎は書物を風呂敷に包みその足で通いなれた道を歩く。
その先にあるのは小さな診療所だ。
「御免」
中へと入ると顔見知りが数名。平八郎を見るなり、
「正吉、平八郎さん!」
その中の一人が奥へと声を掛けると男が平八郎の元へとやってきた。
「おう、どうした平八郎」
「気分が優れなくてな。診てもらえるか?」
「あぁ。ついてきな」
薬屋の息子であり幼馴染でもある木崎正吉(きざきまさきち)は、嫡男でありながら家を継がず、この診療所で医術を学び町医をしている。
六尺(約1.8メートル)ほどあり、大きななりと目つきの悪さは見た目に怖い印象を与えるが、中身は至って優しい男だ。
武士の特権である名字帯刀(みょうじたいとう)という名字をなのり、刀を持つ権利が医者にもあり、正吉は木崎を名乗っている。
「どうれ……」
平八郎の上着を脱がせて触診をし打診をする。
「どうだ?」
「身体の方はでぇ丈夫だ。おめぇのこった、遅くまで書物でも読んでたんだろうよ。肩、こってるぜ」
肩をもみほぐすその手がすごく気持ちがよい。
「おぉ、そこ、いい気持ちだ」
ほう、と息を吐き、暫くその気持ち良さに身体をゆだねる。
「そうか」
平八郎にとって正吉は何よりの特効薬だと思う。
すっかり体も心も軽くなり、もういいよと正吉の手に触れる。
「今日は早めに休めよ。平八郎はすぐに風邪をひくからな」
肩をもんでいた手が、平八郎の背中をおもいきり叩く。
いきなりのことで、咽てしまった。
「げほっ、正吉、何をッ」
いきなり何をするんだと正吉を睨む平八郎に、
「気合を入れてやったんだよ」
正吉は目を細めて口角をあげた。
診療所を出て家へと帰る途中、長屋の立ち並ぶ路地で言い争いをする若い男女の姿がある。
痴話喧嘩だろうか。争うことを好まぬ平八郎は殴り合いはもちろん、口喧嘩ですら見るのが好きではない。
だからと止めに入る勇気もなく、早く立ち去ってしまおうとしていたら、同じ長屋の人だろうか、見かねて仲裁に入り、荒々しかった二人の声は次第に落ち着きを取り戻した。
ひどくなる前に喧嘩が止まって良かった。そう思いながらその場を後にした。