Short Story

伸ばした手は届かない

 もともと一ノ瀬と万丈は同じ課ではなかった。
 入社して配属されたのは百が課長をしていた部署にいたのだが、一ノ瀬の昇進が決まった時に移動してきた。
 どうも自分は顔が怖く、仕事の面でははっきりと口にするタイプゆえに周りに怖がられているようで、百が味方になれるようにと後輩の友人である十和田をつけてくれた。だが、それでけではと万丈を移動させたのだ。
 万丈は大丈夫だから。
 その言葉は一緒に仕事をするようになってすぐにわかった。
 それでも仕事以外の話をしたことはなく月日は流れ、そして従弟の円が同じ課に配属されてそして飲み会での出来事があり今に至る。
 まさかプライベートでも仲良くなれるとは思わなかった。部屋に五十嵐兄弟と十和田以外の人がいることが信じられない。
 昼休みは百の部屋で食べている。弁当を手作りしていることを周りに知られたくないからだ。
「エン、何か嬉しそうだな」
 一ノ瀬の名はエンヤというのだが、五十嵐兄弟は自分のことをエンと呼ぶ。
「楽しそう?」
 いつも通りに重箱を広げて二人に取り分けていたのだが、どうしてそう思ったのか。煮物をつかんだまま箸が止まる。
「ずっとこうだよ」
 そう十和田に言われて、
「無意識に表情に出ていたのだろうか」
 箸をおき、確認するかのように自分の顔に触れた。
「ま、気が付くのは俺と円くらいかな。目元がいつもより優しいなって」
「ほう、それ詳しく教えろ」
 何を期待しているのか、好奇心を隠そうともしない。
「万丈が遊びに来てお皿を貰っただけだ」
 どうせしつこく聞かれるだけなので素直にそう口にした。
「そうか、うん、いい傾向だな」
「だよねぇ。影で手を回した成果がでたというか」
 影で手を回したとか、成果とかどういうことだ。
「何をしたんだお前たち」
 一体、何を考えているのだろうか。
「ん、別になにもないぞ。な、十和田」
「はい。何も」
 にやにや、にたにた、二人の表情は「何かをしました」といっている。
 二人に尋ねようとしたら、いつの間にか弁当の中身を取り分けられていて食事をはじめていた。
「ほら、早く食べないと昼休みが終わるぞ」
 そういわれて時計を見れば確かに食べないと時間がきてしまう。
「そのようだな」
 どうせ聞いたところではぐらかされるだろうから諦めて食事に専念する。
 いつも十分前にはこの部屋を出ていく。十和田は煙草を吸いに、百は家族との時間だ。
 他に話す相手のいない一ノ瀬はデスクに戻り仕事をはじめるのだが、今日はそこに万丈の姿がある。
「今日は早いな」
「課長がそろそろ戻られると思って待ってました」
 と温かいカップを手渡される。
「これは?」
「会社の近くにある珈琲チェーン店の季節限定メニュー、オレンジショコララテです」
 その店は知っている。新作や期間限定の看板を見て美味そうだと思っても滅多に行かない。
「ありがとう」
 甘くてうまい。オレンジとショコラも合うんだなと舌を動かし味を確かめる。
 その姿を万丈がじっと見つめていた。
「すまん。自分でも作れそうかなと、つい考えてしまう癖があってな」
「え、あ、俺こそ不躾ですよね」
 変に思ったのだろう。こういうものは円と一緒の時にしか買わないので、自然としてしまうのは万丈には気を許しているのだろう。
「いや、万丈ならかまわない」
 だからそう答えたのだが、その瞬間、万丈の頬が赤く染まった。
「え?」
「すみません、何でもないです」
 なんでもないわけがない。それなのに失礼しますとフロアを出て行った。
「どうしたんだ、万丈の奴」
 似た表情をしていた者をつい最近見かけた。
 その人は想い人の笑顔を見て万丈のように頬を赤らめていたのだ。
 万丈のことを知りたい。彼の一ノ瀬を知りたいと言ってくれた。
 だが、それは友達になりたい、そういう意味だ。
 好きという言葉は同じでも意味は違う。きっと見過ぎてしまったと思って恥ずかしくなったのだろう。
 勘違いしてはいけない。好意イコール恋愛対象ではないのだから。

 オレンジショコララテのお礼をしたい、そう万丈を夕食に誘った。
「あれはお礼のつもりだったんですが、一ノ瀬課長の手料理がたべたいからお誘いに乗らせてもらいます」
 と言われて胸が小さく跳ねた。
 やはり料理を褒められるのは嬉しい。しかも万丈はたくさん食べてくれるので胃袋に収められていくのを眺めるのも好きだからだ。
「そうか。それなら今日は共に帰ろうか」
「はい。一緒に」
 楽しみだという万丈に、一ノ瀬は相槌を打った。

 会社から万丈を連れてマンションへいくのははじめてだ。
 いつもは車窓から外を眺めているのだが、今日は万丈がいる。
「やはりどの路線もこの時間は混んでますね」
 定時で仕事を終えて乗り込んだ電車は箱詰め状態だった。
 いつも帰る時間でも混んではいるがここまで酷くはない。
「課長、大丈夫ですか」
 万丈と向かい合わせ。押されて密着度が半端ない。
「あの、腕、後に回してもいいですか?」
 その方がお互いに多少は楽かもしれない。
「あぁ、いいぞ」
 一ノ瀬の体を抱くように万丈の手が後ろに回る。
 更に密着度があがり、目を見開く。
 万丈の息を感じる。熱を、香りを。
「はぁ、一ノ瀬さん、いい匂いしますね」
 ふいにそんなことを言われて、どっと熱が上がる。
「じゅ、柔軟剤では、ないか」
「何を使っているんですか」
 鼻を首のあたりに持っていき、すんすんと匂いを嗅いだ。
「可愛い容器に入っているやつだ」
「へぇ。今度、探してみようかな。俺、この匂い好きです」
「そうか」
 顔が離れ、ホッとする。だが、それもつかぬ間。背中を押されて下半身が前に。自分のモノに当たるのは万丈の……。
「えっ」
 万丈と一ノ瀬は同じような背丈だ。ということは自分と同じくらいの場所に同じものがついている。
「ばん」
 その時、丁度ドアが開き、二人の体は離れた。
「一ノ瀬さん、ここで降りるんですよね」
「あ、あぁ。そうだった」
 急いで電車から降りる。
「はぁ、大変でしたね」
「そうだな」
 互いのが当たっていたのは万丈も気が付いているはずだ。だがそれに触れてこないのは気まずいからだろう。
 まぁ、一ノ瀬聞かれては困るのでその方がありがたい。
 マンションまでの道を話しながら歩いていると、次第に万丈の口数が減っていく。
「はぁぁぁ……、やっぱりだめです」
「どうしたんだ、万丈?」
 足までも止まってしまう。人に酔ってしまったのか。
 暗がりゆえに相手の顔が見えず、一ノ瀬は外套のある所まで連れて行くと、万丈が肩の上に頭を乗せた。
「万丈っ」
 電車でのことを思い出して体が震え、万丈が顔を上げた。
「今日は帰りますね」
「どうしてっ」
 体が震えてしまったのは嫌だととらえたのか。そうじゃないと頭の中で思っているのに声が詰まってしまう。
「一ノ瀬さんのことを知らなければよかった」
 頭の中が混乱してその言葉の意味が理解できない。
「それでは」
 頭をさげて万丈が背中を向ける。
「まっ」
 手を伸ばして引きとめればいい。だが、そのあとは何といえばいい?
 中途半端に伸ばされた手は到底届かない。
 小さくなる後姿を眺め、一ノ瀬は呆然と立ち尽くした。