甘える君は可愛い

ワンコな部下と冷たい上司

 杉浦のお気に入りの喫茶店まで押しかけたのは流石にまずかっただろうか。しかし、こうでもしない限り距離が縮まらないと思ったのだが、なかなかうまくいかないものだ。
 パンだけでは物足りないので、コンビニに寄りおにぎりを買った。
 本当は一緒に和菓子屋まで行きたかった。甘い物が好きな事は食事をしたときに知っていたので、どんな反応をするのかが見たかったのだ。
 会社に居る時には見せないような表情をするのだろうなと、想像してため息をつく。
 自分のデスクに戻るには喫煙室の前を通る。どうやらそこに八潮がいたようで声を掛けられた。
「なんだ、喫茶店に行ったんじゃないの?」
 腕時計を見て戻ってくるのが早いと思ったのだろう。
「えぇ、行ってきましたよ」
 実は喫茶店の場所は八潮から聞いた。まだ店主が変わる前から通っていた場所なのだと言う。
「珈琲とパン、美味しかったです」
「そうだろう。で、杉浦君はどうしたの?」
 それに関して曖昧に笑うと、何かを察したようで頭を撫でられた。
「めげないでよ? あの子を変えられるのは君しかいないって思っているんだから」
「俺よりも八潮課長の方が適任ですよ」
 何故、八潮はそんな事を言うのだろう。
 自分よりも八潮の方が杉浦を変えることが出来るだろう。なんせ、好きなのだから。
 なのに、八潮はそれは違うと首を横に振るう。
「僕じゃ無理だよ」
「それって……」
 三木本が居るからかと言葉が出かかった。が、袋を手に下げた杉浦が社へと戻ってきた。
「あ、お帰り、杉浦君」
「八潮さん」
 八潮の姿を見て軽く頭を下げ、松尾の姿に眉を寄せる。
 その反応の違いも、地味に傷つく。
「あれ、その袋、和菓子屋さんに寄ってきたんだ」
「はい。喫茶店の近くにあると聞いたので。たくさん買ってきたので、これよかったら」
 袋の中から団子を取り出した。
 八潮の好みそうなモノを知っている。それがまた、松尾の心をズキズキとさせる。
「わぁ、みたらし。ありがとうね。さっそく頂くよ」
 と、嬉しそうにそれを持って部署へと戻っていった。
 部署のあるフロアに向かい、自分のデスクの椅子に座ると、杉浦がその前に立っている。
「どうしました?」
 何故、自分のデスクに行かないのかと、杉浦の顔を見上げた。
「お店にパンフレットを忘れてましたよ。あと、これをどうぞ」
 パンフレットと共に、喫茶店で指をさした饅頭を袋の中からとりだしてデスクの上へと置いた。
 まさか自分にも買ってきてくれるなんて。驚いて目を見開いたまま相手を見る。
「ありがとう、ございます……」
「あと、よもぎあんぱん美味しかったです」
 もしかして、あの時は冷たい態度をとってしまってごめんと、そういいたいのだろうか。
 これにそういう意味が込められていたとしたら、また調子に乗ってしまいそうだ。

 金曜日に共に食事をする時、待ち合わせに使う場所がある。
 そこは町中に設置された喫煙所で、会社から少し離れた所に設置されていた。
 先に退社をするのは杉浦で、そこで煙草を吸いながら松尾を待つのだ。
「杉浦課長」
「行きましょうか」
「はい」
 いつか「もうやめましょう」と言われるかもしれない。それでも、そう言われないように杉浦の好みそうな店は調べ続けている。
 今日は下町風の洋食店。雑誌で見たのだが、クリームコロッケやオムライスが美味しそうだった。
 店内は、小さな頃に家族と行ったレストランを思い出させて懐かしい気持ちとなった。
 きっと杉浦もそう思ってくれるのではと思い選んだのだ。
「あぁ、まだここはやっていたんですね」
 どうやら来たことがあったようで、懐かしそうに店を眺めている。
「来たことがありましたか」
「はい。小さな頃に。家族と食事といえばここでした。オムライス、おいしいですよ」
 ふ、と、柔らかい表情を見せる杉浦に、松尾の胸が高鳴る。
「余計な事でしたね。入りましょうか」
「はい。中で話しの続きを聞かせてください」
「……家族との想い出なんて、関係ない貴方に話しても仕方がない事でしょう?」
「それでも、家族との思い出を話す杉浦課長は楽しそうでした」
「あっ」
 目を見開き口元を押さえる。
 無意識だったのだろう。顔を背けて店の中へと入っていく。
 ドアベルが鳴り、ウェイトレスが席を案内してくれる。
 メニューを見れば、雑誌で見たクリームコロッケとオムライスの写真が大きくのっていた。
「杉浦課長がおすすめしてくれたオムライスにします」
「私も同じものを」
 ウェイトレスを呼び、オムライスを二つ頼む。
 店の中を見る杉浦は、とても懐かしそうに店の中を暫く眺めていた。
 暫く、黙ってその姿を眺めていた。今は杉浦の思い出の邪魔をしてはいけないと思ったから。
 だが、それも注文の品が運ばれきて終わりを告げた。
 目の前に置かれた皿の上には、とろっとろな卵にデミグラスソースのかかったオムライス。
「うわぁ」
 見た目だけで既に美味そうで、つい、子供みたいにはしゃいでしまて、杉浦がくすっと笑い声をあげる。
「私の弟も、これを見た時に同じような表情をしていました」
 今日はすごく良い雰囲気だ。このまま楽しく話しながら食事をと思っていたら、杉浦から表情は消えてなくなってしまう。
「今回で金曜日に食事をするのは最後にして貰えませんか?」
「……え?」
 それからは黙って食事をし、店を出て直ぐに別れた。
 最後にするつもりだったから、話をしてくれたのだろうか。
 だが、このまま終わりにしては駄目だ。二度と本心を見せてくれなくなるだろう。
 杉浦の後を追いかける。
 この腕の中へと抱きしめて、逃げ出さないようにしないといけない。

◇…◆…◇

 今までプライベートな部分を自ら話した事は無い。
 つい、あの店が懐かしくて家族の事を話そうとしていた事に驚いた。
 松尾といると調子が狂う。
 これ以上は食事会を続けていると、余計な事を話してしまいそうで怖い。
 だからもう最後にしようと決めた。

 昔はデパートの屋上に遊ぶ場所があり、母親が買い物をしている間、そこで待っていた。
 百円を入れると動物が動きハンドルで方向をきめられる。それが楽しくて弟とよく笑っていた。
 ゴーカートに乗ると父は下手で、よく壁に当たっていた。
 すっかり疲れてベンチに座る父に母がお疲れ様と飲み物を差し出す。
 自分と弟はソフトクリームを食べながら、次は何で遊ぼうかと相談していた。
 そんな楽しい時間は、彼が中学に上がった時に突如終わった。
 休日に部活があるからと一緒に出掛けられず、家族はその帰りに事故にあったのだ。
 それからは母親方の祖母に引きとられて育った。
 働きながら大学まで出してくれた。就職が決まり、これからは自分が孝行する番だと仕事も頑張った。
 だが、たくさんの愛情を注いでくれた祖母も、自分の元から去ってしまった。
 葬式の日、本当に一人になってしまった杉浦に、八潮はずっと傍に居てくれた。
 ただ放っておけなくて優しくしてくれただけ。なのに杉浦はそれを勝手に勘違いし、八潮に特別な想いを抱いてしまったのだ。
 それだけに、結婚すると聞いたときは何も考えられなかった。愛しい人は自分の前から去っていく。
 もう、何も期待しない。心を開かなければ、こんなに辛い思いはしなくて済むのだから。
 そう考えるようになってからは何も感じる事もなく、仕事と家に帰る日々を過ごしていたのだが、他の部署から移動してきた松尾が現れ、それからおかしくなった。
 彼は杉浦のテリトリー内に入り込んでかき乱していく。
「待って下さい、杉浦課長」
 腕を掴まれて細い路地へと連れ込まれる。
「これ以上、俺をかき乱すな」
「課長」
「お前みたいな奴は嫌いなんだ。いい加減に解れよ」
「本当のあなたを見せているのは俺だからですよね?」
 ぐっと喉が詰まる。
「調子に乗るな。そんな訳が……」
「貴方の事をもっと知りたいです」
 真っ直ぐに見つめる目に囚われて動けなくなる。
「知られたくない、お前にだけは」
 もう、あの時のように胸が痛んで苦しむ事にはなりたくない。
 痛みにたえるように、胸の所で拳を強く握りしめる。
「杉浦課長、そんな顔をしないで」
 唇に何かが触れる。
 それがキスだと気が付いたときには、唇を割り舌が入り込んでいた。
「ん、ふ」
 欲を含んだキス。このまま、受け入れてしまったら、蕩けさせられ溺れてしまう。
「やめろ!」
 抵抗して、彼を突き飛ばす。
「あっ」
 よろける松尾を睨みつけ、
「俺に二度と近寄るな」
 彼の元から逃げるように立ち去る。
 だめだ。
 この感情に気がついてはいけない。いつか彼も自分の傍から離れていってしまうのだから。